スキー教師物語
20歳ではじめてスキーを覚えた男が、1シーズンで1級に合格し5シーズン目指導員になった。その心構え、練習方法の全てを、あなたに伝える。スキー教師達の素顔、夢、ゲレンデを舞台に私は飛び跳ねた。
はじめに
初めてスキーを覚えた年に3日ほど滑り人との出会いに引き込まれ、翌年のシーズンインと共にスキー場に向かった私は1級に合格する。ますます夢中になり3シーズン目に準指導員、5シーズン目に指導員になった。
このような人がたくさん現れたら、どんなに素晴らしい事だろう。きっとスキーを愛する人が次から次へ増えて行くに違いない。果たしてノウハウが存在するのだろうか?
どのような練習を続ければ、どのような考えで取り組めば1級に合格できるのか。多くの上手いスキーヤーがそれぞれにノウハウを持ち指導を繰り返していることと思う。上達の為に書かれた本も多く出版されているが、これらを読んだりスキー学校に入ったりする人たちに一番必要な事は何なのだろうか。
連続写真を見せながら「どのように滑れば良いか」を解説している本や、マニュアルどおりに指導するスキー教師を否定するつもりは全くない。
どちらかと言えば私だって、このような本に大変お世話になった事は言うまでもない。しかし、書いてあることが理解できるようになったのはスキー場で過ごすようになってから3年も過ぎた頃だった。
スキーのことは何もわからず、ただ出会いに引き込まれてスキー場で生活を始めた私だったが、一月半も過ぎた頃には1級に合格できるレベルに到達していたように思う。その段階になっても先輩スキー教師の言う事は理解できないし、前述の本の内容も全くと言っていいほど理解できなかった。
ただし、私はとてつもなく頭が悪いわけでもなく、十分に普通の理解力を持つことは自負している。
私は、ただ「誰が一番上手いのだろう?」「何を基準に上手いと決めるのだろう?」と言う疑問を持ち始めた。スキー場で過ごし始めたばかりの頃の私にとって、2級はおろか3級を持つ人だって自分より上手い人に違いはなかった。周りでバカな事を言っている人達は皆、指導員や準指導員、最低でも1級だった。
私が飛びこんだ場所はとんでもない世界だったかもしれない。
多くのスキーヤーが求める「上手くなりたい」という思いを、どうすれば簡単に解決できるのだろう。何も頼るものがなく本を読んだり教えてもらったりするのだが、なぜ思い通りに上達しないのだろうか?
結論から言ってしまえば、自分自身が鮮明に上達を思い描く事が大切だ。
スキーがスポーツである以上、何度も繰り返し練習する事で体が覚えてしまう、慣れてしまうという事が必要には違いない。しかし、頭で理解できない事を体が再現してくれる事はあり得ない話で、自分の頭で理解して繰り返すことによって体が反応してくれる事を忘れてはいけない。
もっと簡単に言ってしまえば、あなたが楽しいスキーを思い描けば、あなたの滑りを見る人も楽しい気分になる。力強いスキーをイメージすれば見ている人も力が入る。これほど簡単なものかもしれない。
では、どのように思い描けばよいのだろうか?
あなたが簡単に理解できるように説明してくれるスキー教師など存在しないかもしれないし、同じように理解できる文章も存在しないかもしれない…だから上達しないのだろうか? 否である。
あなたの足に着けられたスキーを動かすのは誰なのか? 目の前に立つスキー教師でも机の上の本でもなく、あなた自身なのだ。したがって、あなた自身が理解できなければ動かせるはずはない。ならば、理解してしまえば思い通り動かせると言う事ではないか。問題は、どう理解するかだ。
「ターンの後半、外足にしっかり乗れてませんから、しっかり乗るようにしましょう」という言葉や文章を、あなたはどのように理解するのだろう? いくら「しっかり乗るようにしよう」と思っても、どのように体を動かせば乗れるのかが解らない限り、何度やってもOKはでない。
しっかり乗ったつもりでもスキー教師は「さっきより良くなったけど、もっとしっかり乗りましょう」と言うに決まっている・・ この事を良くわかってほしい。上手くなれば、「しっかり乗る」と言う感覚も変わってくる訳で、大切なのは今のあなたが理解できる感覚である事だ。
本書では私が指導員に合格するまでの日々を、その時に感じた事やスキー教師の素顔と共に書いているが、中でも感覚と言う文字が多く登場すると思う。
感覚と言う言葉の意味を辞書で調べて語るつもりは全くないが、皆さんには「自分自身で感じて覚える」と読んだ通りに理解していただきたいと思う。
「しっかり乗る」と、どのような結果が現れるのかを初めに感じてしまえば、あなたの上達は飛躍的に加速される事に間違いない。
ただ漠然と滑り始めたのでは感じる事も出来ないし、アドバイスされる内容さえ理解できない、理解できなければ体が再現してくれるわけもないのだ。
おかしな話かも知れないが私が初めてスキーをした時、本文にたびたび登場する小林氏は「内腿を締める、お尻の穴を締める」この2点を教えてくれた。この2点を実行する時、私は何とも言えない…あのトイレを我慢する時のようなむず痒ゆさを、へその下に感じたのだった。
滑りだし、むず痒さが感じられないと転び、起きあがった時にもう一度むず痒くなることを感じてから再び滑り出した。私はただ「上手い人はむず痒いカッコで滑っているのか?」と思い滑り転んでいただけだった。別の人は同じ事を言われても「太ももの裏が痛い」とか「足が震える」など感じる事も違うだろう。
もしあの時、私が「足が震える」と感じていたら足を震わせながら滑ったに違いない。震える事を感じながら滑りつづけるうちに体が覚えてしまい、震えなくなる・・これが感じて覚える事、つまり感覚だ。
このようにしてスキーを始めた私は、もちろんどうすれば細かく回れるかなどと考えもしたし、教えてもらう事もあった。が、二つの事に注意しながら滑るだけで1級に合格したと言っても過言ではない。
自分自身が感じた事を繰り返すのだから、説明がわからないといって悩む必要もない。当然、その人が置かれる環境には左右されるが、周りの人が驚くような短期間で必ず上達できるのである。
あなたが簡単に考えればスキーは簡単で楽しいものだ、難しく考えずに楽しみながら練習を続ける事を心がければ、必ず上手く行く。
そして、一人でも多くの人にスキーを愛してほしいと思っている。
第一章 スキーとの出会い
スキーって楽しい?
山が好きで高校時代から山小屋でアルバイトをしていた私は、20歳のとき初めてスキーと出会うことになった。
ご存知の方も多いと思うが、北アルプスや南アルプスといった山では、冬は雪のため閉鎖する山小屋がほとんどである。したがって、従業員は冬場スキー場ですごす者が多い。日々の会話の中で「スキーは楽しい」とか「新雪はやめられない」など、下山の時期が近づくとスキーの話で盛り上がるようになる。
そんな中、わたしは将来エベレストに登りたいという夢を持ち登山に夢中だった。したがって、スキーの話題になると「リフトで上に行き滑って降りるだけなんて、ミーハーな人間のやることだ」と言って、「スキーは面白いから、一度やってみなさい」という先輩たちの言葉には一切耳を貸さなかったようだ。
はじめてみると、子供のころスキーを覚えた人間との違いに何度も悩み、もっと早くはじめればよかったと思うのだが、当時の私の性格からして素直に受け入れられなかったようだ。
そんな中、一番慕っていた6歳年上の小林さんが、新潟県の胎内スキー場という所でスキーパトロールの見習として働き、バッチテストの2級を取ったと言う話が出た。
私の働く山小屋では、支配人も栂池高原スキー場でコックとして働いており、新年会を兼ね集まることになった。当時、私は山のトレーニングを兼ねて引越し屋でアルバイトをしていたが、「面白くなければ、酒でも飲んでればいいや」と思い栂池まで行くことにした。
大発見!
1984年1月、正確には20歳と9ヶ月ということになる。
夕方集結したメンバーは、夏山の思い出を肴に遅くまで酒を飲んだ。多少二日酔いが残る中、朝食を取り9時ごろゲレンデに出る。
道具を持っていない私は、山仲間のスキー一式を借りていったのを今でも覚えている。
登山をしている関係である程度脚力が強かったのか、何とか立っていられたようだが、リフトに乗り上に行っても滑れるわけがない。
ほかのメンバーは小林さんを先頭に降りて行き、100m程滑っては転びながら降りていく私を待ち再び滑っていった。
「スキーなんか・・・」と馬鹿にしていた私だから出来ないわけがないと思い、周りの人を見てはスキーをはの字にしたり、いろいろ工夫しているつもりだったが、10m程で転倒という結果に変わりはなかった。そして、ナイターまで滑り一日が終わった。
足腰には自信があったが、なんということだろう。体中が痛い、筋肉痛である。しかも大変な疲労感。そして、とんでもない、大発見をした。
「スキーとは、何とおもしろいものだろうか」・・・・・これが、初めて滑った感想である。
グシャグシャグシャー!
2日目には、はの字でダァーと滑って行き、転んで止まる位になっただろうか、この日の午後、小林さんの指導が始まった。
「仁(ジンと呼ばれていた)はの字じゃカッコ悪いだろう、足をそろえて滑れ。」・・・これが指導?
わたしが17歳のときに出会い山小屋で共に過ごし、下界へ降りても、ほとんど一緒で親よりも過ごす時間が多く、当時一番慕っている人の言うことである。
しかも2級だ。「はい」の一言しかない。
スキーをはの字にして、へっぴり腰で30m程真っ直ぐ滑って転ぶ人間が、足をそろえて滑るとどうなるか・・・説明の必要もないだろう。
「スキーをそろえ、お尻の穴を閉める、膝をつける」この三点が注意事項。
滑り始めると、この三点を考え耐える・・・耐える。そして、グシャグシャグシャー、この繰り返しである。
グシャグシャグシャーと言う表現がスキーで転ぶのに適しているか判らないが、まさしく私の感覚はこれだった。
さて、この時期の練習方法としては、恐怖を感じない程度の緩斜面で、できるだけ長い距離を滑るのがよいと思う。上下、左右の動きを使うことにより、少しずつではあるが、あなたの思いどうりにスキーが反応してくれるようになる。出来るだけ遠くを見て、リラックスして滑ることを心がけよう。
そして、判らないことがあったらスキー学校の門をたたこう、今のあなたにとって一番大切なことを、スキー教師が教えてくれる。
あなたはスキー教師?
そして、耐える時間は少しずつ長くなって行くのだが、耐えきれなくなると痛い思いをするという繰り返しだった。
後日、小林さんによれば、彼は2級、1級と進む間、はの字からターンを始動する癖が取れず苦労したため、私には始めから、そろえて滑るよう教えたらしい。およそ、スキー教師とは思えぬ指導だったように思うが彼もまだ2級。スキーの教師ではなかったのである。
ただ長い付き合いの中で私がスキーにはまる事は判っていたらしく、私が指導員を取ったときには、
「この日の事を考えて初めから、そろえるように教えたのだ。」と、得意そうに話していた。
耐えては転ぶを繰り返すうち、ほとんどの場合耐えきれなくなるが、たまに山まわりらしきものが出来るときもあった。
そして最後の夜、酒を飲みながら話していた。小林さんは、胎内スキー場に戻り、パトロールの仕事が始まるわけだが、「仁、暇だったら3月に遊びに来い。」と言う話になった。
田舎のスキー場!
三月になると聞いたとおり胎内スキー場に向かった。
中条駅で降りバスに乗るが、このバスが一日に4本しかない・・・。
初めて行ったスキー場が栂池だった私には、少し信じがたい光景が広がっていたのだ。華やかな土産物屋など一軒もなく、ゲレンデは広いがリフトはほとん
どシングル、目の前には古い木造のロッジ・・・スキー場もいろいろである。
気を取りなおしスキー学校へ、小林さんを訪ねて行った。
このスキー場は国設胎内スキー場といい、黒川村役場によって運営されている。したがって、支配人やスキー学校長など、主要メンバーは役場の職員と言う事になる。そして、私にとって2ヶ月ぶりのスキーが始まった。
どう思っていたの?
校長や他のメンバーなどを紹介されたが、今思えば皆、私の事をどう思っていたのだろう。小林さんの子分で、山小屋で働いていて、大阪から遊びにきた・・・というところか。
誰一人、後に6年間もの月日をここで過ごし、スキーの指導員になるとは思ってもいなかっただろう。なにしろ本人でさえ、そんな事を思っていなかったのだから。
仕事の合間には、小林さんやスキー学校の連中がかまってくれた。
かまうと言っても、スキーを教えてくれたりではない。
なにしろ、そのときの私はスキーを教えるとか、滑れるとかいうシロモノではなかったのだ。
車の運転には注意しよう
ナイターも終わり、スキー学校で酒飲みが始まった。
いろいろな話で、盛り上がったように思うが、私には、何人かの言葉が理解できず、困ったのを覚えている。
胎内パークホテル(国民宿舎)へ移動するころには、降り出した大粒の雪も
結構積もり、私たちが乗る小林さんの車が走り始めると、隣の車線(対向車線)を、坂上 隆義の車が猛スピードで追い越していった。
「何がターボだ」と言う言葉と同時に、アクセルの踏み込まれた小林さんの車は・・・雪の壁へと突っ込んでいった。3人で押すが動こうとはしない。
やがて、雪でびしょ濡れになったころ皆が助けにきた・・・雪道での運転には十分注意しましょう。
あなたと私は違う
さて、スキーは左右に回りながら滑り降りて行くのだが、十人十色と言われるように、それぞれの人が感覚的に捕らえている。
したがって、言葉で表すとバラバラになる。
2日目になり「右足をバシンと踏むんだ」と小林さんに言われ練習をするが、一向にスキーは回らない。右足をバシンと踏みスキーが回る、次は左足をバシンと踏めば、連続してターン出来ると言うのだ。これが、それぞれの人が持つ感覚なのだ。
では、なぜ私にはできないのか?
小林さんの足は私の3倍もあろうかという太さで、初めからパワーが違うような気がした。体形も違う。彼は、165cm70kg、私は175cm60kgだから、感覚的に違うのは当たり前である。
それでも何度も繰り返し痛い思いをするうちに、2,3回転出来るようになった。なにごとも習うより慣れろ、子供のころからスキーをしている人たちが、何事もなくターンを連続させるように、とにかく時間を作り何度も滑る事が大切だ。
そして、いろいろな人の感覚を聞き、その中から自分の感覚に近いものを見つけ出そう。バシンがいい人は、心の中でバシン、バシンと言いながら滑る。そして、一日も早く自分の感覚をつかもう。
それで・・・わかるの?
ただでさえ不安定な状態で滑りながらでは確かに難しいのだが、その後、指導員として指導するようになり感じた。
人間の体は、頭で命令を出し動くと言う事をよくわかってほしい。脚の曲げ伸ばしを使いましょうと言われたとしよう。部屋の中ならば、床に尻が着くぐらいから、背伸びするまで動くだろう。しかし、滑っている最中はどうだろう、ほとんど動かないのだ。
スキー教師たちは、その動きを見逃すまいとして見ているからわかるが、上達を目指すなら、自分の中で動いているという感覚以上に動かしてみよう。
あなたと上手い人では体の使い方が違うのだ。
新たな感覚を身につけようとするのに、今までと同じ動き方をしていたのでは、その感覚がどのようなものか?・・・わかるはずがない。
大丈夫!体は勝手に自己防衛してくれる。これ以上動けば転ぶと思うところで、やめてくれる。
二人は正反対!
上手くなりたいと言う事は、出来ない事を出来るようにする事だ。
スキーでは、出来ない事をすれば転んで当たり前ではないか。けっして、転ぶ事をお勧めするわけではないが、初めてスキーをしたとき、滑っているよりも、転んでいる時間の方が長かった人も多いだろう。
今まで出来なかった事に挑戦するのだから当然の結果である。
スキー教師は、あなたが少しでも早く滑れるよう、どうすればいいかを毎日考えている。わからないときはスキー学校に入ろう。
後に、大阪の友人をスキーに連れていくのだが、初めて滑るこの二人は正反対だった。一人は夢中になり耐えに耐えて、とうとう帰るころには、なかなかどうして滑れるようになってしまい、帰りも「スキーは楽しい、また行きたい。」と言っていた。
もう一人は、「俺はこの年になって、こんなにミジメな思いは初めてや、二度とスキーはせん。」といい、一本滑ると最後まで車で寝ていた。
彼の鼻から、20cmはあろうかという鼻水がたれていたのを、いまでも覚えている。
初めてスキーをする人のすべてが、前者であれば・・と願うがそうは行くまい。
しかし、スキー教師たちは、間違いなくそう思っている。そして、初めての人に、出きる限り知恵を出す。
一人でも多くの人が、スキーを愛してくれるようになるために。
男同士の大事な話
さて、話を戻そう。
二日目の夜、我々は校長とともに街へ出た。
酒も進み、そのときの会話はこうだ。いまでも、校長と酒を飲むと、
仁 「校長が来いと言ったんですよ」
校長「スキーできないやつに、そんなこと言うわけないだろう」
仁 「いいえ、確かに言いました」
校長「言わない」
この繰り返しである。
いまでも、私の記憶のほうが正しいと思ってはいるが・・。
校長「君は、冬場暇なんだろう」
仁 「いまは、引越し屋をしています」
校長「スキー、上手くなりたいだろう」
仁 「いまのままでも、いいと思います」
校長「でも、君は下手だよ」
仁 「下手でもいいじゃないですか」
校長「下手だよ、上手くなりたいだろう」
ここまで言われると、悔しさからかもしれないが、上手くなりたいと思うから不思議である。
仁 「やるからには、上手くなりたいです」
校長「上手くなりたかったら、うちへ来なさい」
仁 「はい」
こんな感じだったと思う。
校長も酔った勢いで言っていたのかもしれないが?
そして翌日、大阪へと帰った。
酔ってたの?
1984年11月、21歳と7ヶ月。
夏山シーズンも終わり、大阪へ戻り小林さんと冬の話をしていた。
ここで、高橋 浩を紹介しておこう。後に陥没骨折と言うあだ名のつく男である。(当時30歳)
やはり山仲間で、私が小林さんに「胎内には、いついけばいいの?」と聞くと、その横で「汚ねえな、自分ばっかり仕事決めてきやがって。」となった。彼は重機の免許を持つ、ブルドーザーなどのプロドライバーで、圧雪車(コース整備用の車)に乗れないか尋ねる事になった。
数日後、履歴書を送り採用が決まる。
私にすれば、すでに3月の段階で決まっているものと思っていたが、後で聞いた校長と小林さんの会話は、
小林「仁が行くと言ってますが。」
校長「来ると言っても、スキー出来ないだろう。」
小林「校長が、来いと言ったんじゃないんですか?」
校長「スキー出来ないのに、そんな事言うわけないじゃないか。」
やはり、あの時の校長は酔っていたに違いない。
そして村役場では、観光課長と校長の間で、
課長「仁君は、料理が出来るようだから、食堂で使えばいいじゃないか。」
校長「いいえ、パトロールで使います。」
課長「スキーの出来ない人間を使って、何かあったら、おまえ首だぞ。」
というやり取りが合ったらしい。
資格
さて、ご存知の方も多いと思うが、スキーにはバッジテスト、指導員、パトロールなどの資格があり、仕事により必要な資格が異なっている。
現状は有資格者の不足などから、1級、2級を持つものが見習いと言う形で従事している場合も多く見られる。
パトロールは当然の事だが、人命にかかわる仕事であり、大変な事も多い。
胎内スキー場では当時、校長が総責任者と言う形で、公認パトロールの資格も持ち、小林隊長のもとパトロール隊が編成されていた。
私達、見習いは日々パトロールに必要なスキー技術の他、救急法などを叩き込まれて行く。
小林隊長はこの前の年晴れて1級に合格しており、その自信に満ち溢れた滑りはなかなかのものだった。
ここでもう一人、日体大の学生で黒鳥と言う男を紹介しよう。
年は私と同じ、もちろん1級、アルバイトでパトロールをする事になっていた。
12月25日を過ぎ、雪も増えゲレンデの見回りが始まる。
彼とリフトに乗り(この年ペアリフトが新設された)話していた。
黒鳥「仁さんは、1級ですか?」
仁 「いや、何も持ってない。」
黒鳥「何もないのに、よく雇ってもらえましたね。」
悔しくて、とにかく早く上手くなる事を決意した。
地元の悪ガキ
仕事の合間に練習する日々が続く。
当時まだ高校生だったセイボウは、中学生のとき1級をとった地元の悪ガキで日曜日にはパトロールの手伝いに来ていた。
「仁さん、コブを一つ一つ回ればウェーデルンが出来るよ。」と言うのだが、私は「コブなんかに入れば、滑るどころじゃねえよ。」と内心思った。
しかし、周りの人達すべてが私の師である。ゲレンデ巡回中はコブがあれば入って行くのだが、やっと、3、4回、回れる程度の私に滑れるわけがなかった。
仁 「セイボウ、小さく回るには、どこをどう動かせばいいの?」
セイボウ 「うーん、やってればできるさ。」
仁 「・・・・」
このあたりが、子供のころからスキーをしている人との大きな違いかもしれない。
彼らは、気がついたときには出来ていたのである。
そう、コブ斜面に入り一つ一つ回っているだけで・・・・。
このころの私の技術レベルだが、ある程度スキーをそろえて数回転できるようになっていたと思う。ここへ来て約1ヶ月、パトロールという仕事上、横滑りや、大きく開いたプルークでブレーキをかけながら滑ることは、上手く行くようになっていた。
そこまで真似するな
師に恵まれ、環境に恵まれ順調に上達していくわけだが、常に耳は大きく開いていなければいけない、目に焼き付けなければいけない。上手い人が話しているとき、自分にとって大きなヒントになることがあるからだ。
一人一人、感覚が違うのである。
誰の感覚が自分に近いのか判断しなければいけない。ターンを言葉で表現した時、「キューン」とか「キーン」とか「ガー」とかいろいろだと思う。
なぜ、この人は「キューン」なのに自分は「ガー」なのか、取り止めのない書き方だが、自分とは感覚が違うから上手いのではないか・・・。
そして、その人の滑りを目に焼き付けるのだ。
実際には全然違うとしても、その人になりきるのである。私にとっては、校長だった。とにかく、すべてを真似した。
ひょっとすると、日常生活まで真似たかもしれない。
準指導員、指導員と進むうち、何度も何度も猫背を直すように言われた。
しかし、いっこうに直らなかった。…なぜなら、校長が猫背だったのである。
先生が悪い
さて、皆さんの中にも、スキー学校を利用した経験をお持ちの方もいると思う。
スキー教師達は毎日毎日、飽きもせず、「こんなときは、どう教える。」「こんな風に、滑ったらどうだ」などと、とにかく語り合う。
酒が入れば、「今日の、生徒は可愛い子だった。」などと言う話も出る。
とにかく、熱いのである。
そして、人を上手くしたい、自分が上手くなりたいという思いをぶつけ合う。
レッスンの時は、その思いを生徒さんにぶつける。
だから、皆さんも言いにくいかもしれないが、わからない時は「わかりません。」と思いをぶつけてほしい。
皆さんがわからないのなら、それは教え方が悪いのである。
「スキーを開いて、こう荷重して」などと言っても、それぞれ感覚が違う。
「頭では、わかっているのですが、体が言う事を聞かない。」などとよく言われるが、そんなバカな話がある訳がない。
生徒一人一人の感覚に合う説明が出来ていないだけなのだ。
しかし、なにも言わなければ、教師は皆さんがわかったものとして、レッスンを進めてしまうのではないだろうか?
何でそこにいるの?
スキー学校は、常勤と非常勤の講師により運営されている。
常勤講師は毎日スキー学校にいるが、非常勤講師は自分の仕事が休みの日に、スキー教師として皆さんにスキーを教えている。
やはり日曜日などはスキーヤーの数も多く、スキー教師の人数も必要になってくる。
では非常勤講師達は、日曜日しかスキーをしないのかと言うと、そうではない。わざわざナイターに練習するためにやってくる。
私のいた胎内スキー場では、レッスン終了後の4時ごろからと、ナイターの7時ごろから、指導員、準指導員、パトロールが参加して研修が行われていた。
そろそろ2月になろうかと言うころ、私は、これに参加することを命じられた。
毎日、手を変え品を変えいろいろな練習をするのだが、その日はシュテムターンの山開き、谷開きなどをやっていた。
校長が滑り、下で見ている中次々に滑っていく・・見事なものだ。
私は内心「この人達は、教えてもらう必要があるのかな?」と思っていた。
そして、なにやら難しい説明の後、私の番になる。
校長 「仁、言ってる事、判るか?」
仁 「さっぱり、判りません。」
校長 「まあいいや、前の人のやるの見てたな。真似してやってみろ。」
仁 「はい」
この時、校長は最後まで上にいた。
滑り出した私は訳もわからず開いたり閉じたりしながら、下で並んでいる先生方めがけて突っ込んでいった。どうやら、この結果は全員がお見通しだったようで、さっさと逃げてゲレンデ脇の新雪にはまり動けない私を見て・・・笑っていた。
考えてみれば校長はなぜ、この時だけ上にいたのだろう?
仕事が終わると難しいスキー用語のわからない私に、小林隊長が一冊の本を差し出した。日本スキー教程である。
暇があるとこれを読み、そのうち用語も覚えていった。
拍手喝采・・カッコイイ!
この頃になるとお客さんの前で転ぶ事はほとんどなかったのだが・・・。
胎内スキー場のリフトは、ゲレンデの端に着いているものはなく、お客さんがリフトから物を落とした場合、拾ってあげなければならなかった。
日曜日、満席のリフト下を真っ赤なヤッケを着たパトロールが、新雪を切って滑り降りて行く。リフトからは拍手と歓声があがる、とにかくカッコイイ、やってみたい。
しかし、私は下から長靴を履いて上って行く。
なぜならパトロールは、お客さんの前で転んではいけないから。
晴れているのに大雪
この日のナイターから練習が始まる。
7時には研修が始まるので、時間はそれほどない。
5時30分最終パトロールを終えると急いで夕食を取り、2本のヒモを持ってリフトに乗る。この時間は、仕事を終えナイターにくる人が、まだ車に乗っている時間なので、比較的人は少ない。
第3ゲレンデを途中まで滑ると、取り出したヒモでビンディングと靴を結びつける。
なぜかと言うと新雪で転びスキーが外れた時、見つからないからである。
ゲレンデの端にスキーヤーが入れないようネットが張ってある。
周囲の確認(誰にも見られていないか)を十分にしてから、ネットをくぐる。
滑る、転ぶ・・・滑る、転ぶ・・・。そして7時前にはスキー学校へ戻る。
体中の雪をよく払い落とし、何もなかったような顔で入って行くと、皆から声がかかる。
「仁、雪でも降っているのか?」
「いいえ、いい天気です。」
「なんだ、それ・・・」 ヤッケのフードに視線が集まる。
あれ?・・・雪がいっぱい詰まっていたのだ。
こうして私の秘密練習は、あえなく初日に全員の知るところとなってしまった。
さて、新雪は習うより慣れろ、とにかく入る事だ。
スキー場では危険防止のため立ち入り禁止の場合も多いが、スキーに行って運良く・・・?大雪に合ったら、宿にくすぶっていないで、とにかく滑ろう。
パラレルがどうの、シュテムがどうのと考えてはいけない。
難しい事はどうでもいいのだ。
手袋も靴もヤッケのフードも、目も鼻の穴も耳の穴も、すべて雪で一杯にしよう。・・・ただし、50cmくらいのヒモ2本はわすれずに!
この新雪練習も10日ほど続けると、転ばなくなった。順調、順調!とにかく滑る事が楽しくて仕方ない。
直滑降!
そして毎日ではないが、天気のよい日に続けている事があった。
朝一番の中央ゲレンデ(約1000m、平均斜度18度)を、直滑降することだ。圧雪車で、きれいに整備されて硬く締まっている事が大切だ。
毎日のように続けると恐怖感もなくなり、晴れた日が楽しみになってくる。中央ゲレンデは上部が急で、中間に緩斜面、下部が再び急になるので、しばらく耐えると、スピードも落ち十分楽しめるようになった。
ある朝、校長と伊藤 春彦、隊長に呼び止められた。
「仁、中央行くだろう、これ、履いていけ。」
なんだこれ・・・と言う感じだった。
2m23cm、春彦が持ってきた滑降用のスキーだ。
彼は私と同じ年で、子供の頃から競技スキーをしていて、当時は大学のスキー部、もちろん1級である。後に、準指導員検定で200名以上が受験する中、新潟県で5番と言う成績で合格するのだ。
しかも、サラリーマンのかたわら、休みの日しか滑れないという状況で・・・。
裏切り
長いスキーのほうがスピードも上がるのだが、天気もいいし、いい気分。
私は鼻歌交じりでリフトに乗っていた。そして、滑り始める。いつもより、スピードもでていたようだが、十分耐えられる。
だが、下の斜面に入る時、私の予想は大きく裏切られた。
いつもは、そのまま滑っているのだが・・・飛んだのである。
滑降の競技などを、テレビでご覧になった事のある方ならお分かりだと思うが、緩斜面から急斜面に入る時、スピードがあると人間は・・・飛ぶのだった。
グシャグシャグシャーと転び、片方のスキーが外れ、ストックも外れ、体で滑り降りた私が見たものは・・・。
大笑いしている仲間達だった。やはり、皆こうなる事は知っていたらしい。
怖くなければ思い通り
新雪が何とかなると次は2m23cm。スキーというのは本当によく次から次へと、問題を出してくれる。
しかし、この問題の答えは2、3日で見つかった。下の斜面に入る前に、心の準備をするだけでよかった。
そう、スキーでは予測する事が大切なのだ。次はコブだから早くスキーを回そうとか、この先は雪が硬そうだから、しっかりエッジを使おうとか・・。そして、実際に感じたものと比べ修正していけばよい。
さて、直滑降を克服してから、私のスキーは大きく変化し始めたように思う。回りながら降りて行く場合、直滑降よりもスピードが出ない。したがって、恐怖感がない。
スキーはスピードとの戦いである、怖いと思わなくなれば、少しは思いどうり行くようになるから不思議だ。
一般スキーヤーは、なかなか誰もいないゲレンデを滑る機会が少ないとは思うが、晴れた日には、とにかく誰よりも早く一番にリフトに乗ろう。
難しいことを考えてはいけない。さあ、下まで真っ直ぐに滑り降りよう!!
怪我には十分注意して、そうしないと、せっかく上手くなれると言うのに、シーズンを棒に振ってしまうかもしれないから。
転んだときは、大の字なって空を見ればいい。
大丈夫!そう簡単に骨折などしないから。ただ、少しだけ痛いのは我慢しよう。
ウェーデルン
2月にはいると、隊長から「仁、パラレルは現時点で直すところはない。」と言われ感激したものだ。そうなると、ウェーデルン(小回り)である。
急斜面を、チャッ、チャ、チャッと滑るやつ。
うーん、カッコイイ!
ナイターで隊長から教えてもらう。
隊長「山スキーのアウトエッジから、インエッジへバシンと叩きつけるんだ。」
バシン、バシン 数回、心の中で呟きながら叩きつけたとき、グシャー!ピューン・・・気が動転した。スキーが飛んでいった。
立ちあがり何とかスキーをつけ、隊長のところまで降りて行く。
彼が言うには、私の頭上10mくらいまで、花火のように一直線にスキーが上がり、ひらひらと落ちてくると表現していた。
隊長「そのうち、できるようになるよ。」
次は、佐藤 康文先生の出番。
スキーをはの字にして交互に体重を乗せて行く、左右交互に押し出す感じだ。これは少し上手くいった。が、続けると少しずつ、スキーが近づいてくると言うのだが、いっこうに近づいてはこなかった。
見捨てないでよ!
翌日の昼間、特にゲレンデには悪いところもなく一人で練習していると、校長が滑っていたので「校長、ウェーデルン教えてください。」というと、簡単にOKしてくれた。
スキーをはの字に開いて、上下動を使いなさいと言う事で、脚の曲げ伸ばしを連続させながらスキーに荷重していく。
一時間もすると…。
校長「そのうち出来るようになるから、あせるな。」
仁 「・・・・」
見捨てられた。そのうちではなく、早くできるようになりたかった。
校長が言うには、曲げて雪面を捉え、伸ばしてスキーを回して行くのだが、私の場合、何度やっても反対になるらしかった。
やはり自分の感覚として、理解できなかったのだ。
小回りは皆さんにとって、大きなテーマだと思うが、下から見ていれば上体は常に下を向き、大変動きが少なく見える事だろう。しかし、見た目に騙されてはいけない。
素早く、たくさんスキーを回さなければいけないのだ。
じっとしていても、スキーなど回るわけがない。
たくさんスキーを回すのだから、たくさん体を動かすのは当然の事だ。
もっと簡単だよ
スキーをはの字に開いた状態でじっとしていれば、あなたの体は2本のスキーの真中にある。このままなら右にも左にも回らない。
そこで上体を右に傾けよう、するとスキーが左に回のはなぜか?
最初から右のスキーは左に向いているから、体重のバランスが崩れるだけで回ってしまうのだ。再び、上体を真っ直ぐにして反対に傾けよう、今度は反対に回る、この繰り返しである。
とにかく簡単に考えてほしい。この動きをゆっくりやれば大回り、素早くやれば小回り・・・。こう考えるのだ。
皆さんは上体を常に下に向けてなどと考えているかもしれない。
しかし、そんな事を考える必要はない。
なぜなら、小回りは回転半径が小さいので、大回りよりスキーは早く下を向く事になる。当然、上体だって下を向く時間が長くなるではないか。
「あれでいいよ。」
さて、見捨てられた私はこの頃、とにかく小回り、どこへ行っても小回りだった。
プロペラターンというのをご存知だろうか?
ジャンプしてスキーの向きを変える、これを連続して行くのだ。これを斜面でやると、どんどんスピードが出て弧が大きくなる。
大きくなれば小回りではないし、プロペラターンでもない。
そこで斜面を上に上がって行く練習をした。確実に一度の着地で止まれるように、何度も何度も練習した。
確実に止まれると言う事は、スピードが出ない。
スピードが出なければ、弧は大きくならないのでは・・・こう考えたのである。
この位極端に考え、極端に体を動かすと、それらしくなるから不思議である。数日後、酒を飲んでいた時校長に、
「仁、ナイターでウェーデルンやってたじゃないか、あれでいいよ。」と言われた。
ついにやった!ウェーデルンができたのだ。
あなた自身がわかりやすい人を信じよう
形なんかどうでもいい。
とにかく、短いエッジングで止まる感覚をつかむ事だ。
あなた自身がわかりやすく、表現しやすい感覚をつかむのだ。
私は校長の言う、曲げて雪面を捉えると言う感覚を、ジャンプして着地する時に、確実に止まると言う感覚で理解できた。
何度も申し上げているが、一人一人感覚が違うのだ。
そして、この感覚の違いを、いろいろな人やスキー教師に聞いてみればいい。
その中で自分の感覚に近い人の滑りを、その目に焼き付けるのだ。
そして、自分のものにするのだ。教科書のような答えを返す人がいたら、そんなものは無視すればいい。
とにかくあなたの分かりやすい答えを返してくれる人を信じよう。
いい年こいて大丈夫なの?
そして数日後、中央ゲレンデでケガ人発生の連絡が入り直行した。
どうやら衝突事故らしい、緊張が走る。行ってみると、高橋 浩が倒れている。相手のスキーヤーは大きな怪我もなく、一安心である。
しかし、彼の顔はどうだ、青く腫れあがっている。病院へ直行、入院と言う事になった。この男は、ゲレンデ整備の仕事をしにきたのだが、いい年をこいて、密かにスキーに燃えていた。本気で練習していたのだ。
彼もまた私と同じように、スキーなど出来なかったのだが、この頃になると、大分滑れるようになっていた。
冒頭でも書いたとおり、陥没骨折である。
手術のため頭を丸め、出家したようだった。病院にいる間スキー場では、カンボツと皆が呼んでいた。「カンボツ元気だったか?」
見舞いから帰った人は、必ずこのように聞かれた。そして、退院後には「チンネン」に改名された。
チンネンは、夜になるとストローでビールを飲む。
まだ大きな口を開くと痛いらしい。
それから数日もすると、分厚い毛糸の帽子をかぶり、おとなしく滑るチンネンの姿がゲレンデで見られるようになった・・・恐るべし!
史上最大のライバル
2月も中旬になると、ライバル黒鳥と比較される事が多くなってきた。
この男が日体大だけあって声のでかい男だ。
得意技はバク転。なんと雪の上で、スキー靴を履いたままバク転ができるのだ。
校長「クロ、お前より、仁のほうが上手いんじゃないか?」
黒鳥「仁は上手くなりましたから。」
ざまあみろ!・・・君のおかげです。
今は、新潟で体育の教師をしているらしい。やはり、あのでかい声で教えているのだろうか?
迫りくる関取!
この頃から「何がターボだ」の、坂上 隆義(1級)とよく練習した。
彼は胎内パークホテルに勤めていて、高校では、相撲でインターハイまで行ったという人物で、我々は関取と呼んでいた。(年は一つ上)
後に準指導員、指導員とすべてをともに受験し、ともに合格するのだ。
準指導員検定の合格発表の朝、顔を見合わせ落ち込んだ話は後で書く事にしよう。
彼の滑りは、関取と言う名のとおりドーっと迫ってくるようだ、あの中央ゲレンデが狭く見える。
とにかく、降りてくるのを下から見ていると、ドドドドドーと音が聞こえるようだった。ホテルでの勤務がない日には、ここはこうしたほうがいい、ここはこうだ、とアドバイスを送り合う最高の友であった。
酒を飲むとその大きな体で、「大きな栗の木の下で」と言う歌を振りをつけながら歌う、胸の前で少女のように手を合わせる時のおもしろさ、大笑いしたものだ。
えっ?これが秘密兵器
最近では冬になっても雪が少なく、どのスキー場も雪不足で困っているようだが、この頃はとにかくよく降った。
除雪や屋根の雪降ろしなどは大変だが、ゲレンデに雪が多ければパトロールにはありがたい。朝、進入禁止の看板やネットなどを直すとケガ人が出ない限り仕事は少ない。
このとき大きな仕事といえば、ゲレンデの巡回である。
巡回と言えばスキーだ、ストックを持って滑る。パトロールはスコップなどを持ち滑って行く事が多く、ストックを持つと嬉しくなる。
この頃よく言われたのが、ストックの出し入れだ。
まるで狸が腹をたたくように、しまっては出しを繰り返しカッコ悪い。
坂上 誠さんは6歳年上でもちろん指導員、目が大きいので、私は目玉のマーさんと呼んでいた。
スキー技術選手権というのをご存知だろうか、スキー教師達の大会である。この大会で上位に入賞した人達がデモンストレーターになって行く。彼はこの大会で新潟県予選を突破したことがある、新潟県から本選には25ー30名が進み、このうち5,6名がデモになっているから、どれだけ激戦区かわかるだろう。
マーさんが、わたしのストックを直すため、秘密兵器を作ってくれた。
これは、ヒモの両側に輪を作ってあり、手首を通すのだ。
丁度よい長さに作られたこの兵器の使い方は、体の前でいつもピーンと張っていればよい。これを、肌身はなさずではなく、手首離さずつけているのだ。
こんなことをしていると、一般のスキーヤーはどう思うのだろう、「馬鹿みたい」かもしれない。しかし、そんな事を考えてはいられない、スキー教師達は自分の悪いところを直すために必死なのだ。
こうして、いろいろな工夫をしながら、自分の滑りを理想に近づけて行く。
言われた事、忘れないで!
スキー学校に入ると、「手を前に出して。」などと注意される方も多いと思う。スキー教師はあなたが手を前に出す事によって、少しでも前に乗れるようにと思い、こんな注意をする。
しかし、多くの人が滑り出すとすぐに忘れ、手が下がってしまう。
常に頭の中に置いて繰り返す事で体が覚えてしまう。
気がついたときに自分の思い通りの所にあるようになれば、忘れてしまってかまわない。一度体が覚えてしまえば大丈夫、あなたもカッコよく構えられるようになっている。
なぜ、滑り出すと忘れてしまうのか? 他のことを考えるからだ。
スキー教師は今のあなたにとって一番大切な事をアドバイスする。
他の事は考えず、言われた事だけに集中しよう。
「上手くなったな」
この頃、よく校長と滑った。
いろいろ教えると、校長は上手く出来ない私に、「バカヤロー、下手くそ」が口癖だった。
何度か口にすると、「ついて来い」といって、いつも私の前を滑っていった。だんだん離れて行く。校長のシュプールの上を同じように回っているつもりだが、どうしても離れて行く。リフトに乗ると
校長「仁、離れていくか?」
仁 「はい」 そして、「久しぶりに一杯やるか。」と、何とも寂しそうな、そして嬉しそうな顔で言うのだ。
上手い人の後を着いてゆくと離されて行くのはなぜか?
やっている事が違うのである、エッジの使い方が違うのだ。
この事を私が知るのはもう少し後、準指導員になった頃だったと思う。
そして、何本か滑るとチャレンジコースに入っていった。
ここは胎内スキー場でも一番の難所で、斜度30度以上、大きなコブが不規則に並んでいる。
校長が下で見ている中、私はいつものとおり滑っていった。
「仁、上手くなったな」と校長がポツリと言った。
「毎日、滑ってますから」と答えた私は、サングラスの奥であふれそうになるものを必死でこらえた。
皆さん、確かにスキーは難しい。
しかし、あきらめずに練習すれば、必ず出来るようになる。
どんなに上手い人でも、生まれた時から滑れるわけではない、コブを恐れてはいけない、とにかく何度も挑戦する事が大切だ。
チャレンジコースは探した?
私は、いつも朝一番に出て行くと、スキー学校には、ほとんど戻らなかった。よく、放送で呼ばれたりした。(翌年から、トランシーバーの携帯を命じられる。)
「お前は、飛んでいったら何処にいるかわからない」とよく言われる。
校長はゲレンデを見て回りながら、いつも誰がどこにいるか確認していた。どこで何をしているか知っていた。
しかし、私は何処にいるかわからない・・・
そう、いつもチャレンジコースにいたのだ。
そう見えるだけだよ
さて、ある程度滑れる生徒さんに「コブ斜面は、どう滑るのですか?」とよく聞かれる。
「コブの頭で抱え込んで、谷で伸ばすのですか?」などと質問される。
本当によく勉強していると思う。難しい事は良くわからないが、教科書どおりに答えれば、そう言う事になるだろう。
しかし、本当にそうだろうか?皆さんがコブの頭で抱え込んだ時には、3つも4つも、コブを超えてしまってないだろうか。超えてしまっていれば、あとは何も出来ない・・・・痛い思いをするに決まっている。
教科書の事は上手くなった時に必ず理解できるから心配しなくていい。
私は、ひたすらコブを無視して整地された斜面と思い込み、自分に言い聞かせるようにした。自分のリズムでターンを連続させる、回る時にたまたまコブがあったり、なかったりの世界である。
上手く出来なくて、転ぶのは当たり前。
自分がスキーをまわそうとした時、たまたま状況が悪ければ思ったよりスキーが回らない、状況が良ければ思ったよりスキーが回ったりする。これで十分、コブに合わせて上手く滑っているように見える。
次を予測して、すぐに体が反応してくれるような上級者にならない限り、コブの頭で抱え込んで・・・などと考えていたら、確実に通りすぎてしまう。
そう、スピードが出てアウトである。
皆さんは、指導員は上手いから、そんなことができるのだ・・・と思うかもしれない。しかし、良く考えてほしい、コブの頭で・・・と考えるのと、普段の自分にできること・・・と考えるのと、どちらが簡単な考えだろう。
今あなたは、コブ斜面での滑りを自分の感覚として持っていないのだ。
持っていない感覚で滑ろうとする・・・出来るわけがないではないか、難しく考えてはいけない。
難しい事は誰だって出来ないではないか、気楽に行こう!
あなたにコブ斜面での新しい感覚が身についたとき、教科書を思い出してやってみよう。必ずわかるようになっているから。そして、教科書どおりの感覚が何回も回るうちに一回あれば、あとはその回数を増やしていけばいい。
スキー教師だって、何回も回る中、すべてを上手く出来はしない。
上手くいったり行かなかったりするなかで、自分の感覚になるまで、じっと我慢しているから、美しく見えるだけだ。
もうお分かりだと思う。
コブの頭で抱え込む、というのを、あなたの感覚としてつかむのだ。
私の感覚では、抱えこまない。脚には関節がある。
コブにぶつかれば、勝手に曲がらないだろうか? 曲がってしまうのである。
あなたから見て、今私の曲がってしまった脚は、抱え込んでいるように見えないだろうか?
あなたの感覚が一番大切
難しく考える必要はない、一つ一つ丁寧にやるだけでいい。
地元の悪ガキたちは「やってれば、できるさ。」という、これが彼らの感覚なのだ。では、あなたの感覚はどうだろう。
スキー雑誌などの連続写真を思い浮かべていただきたい。
この3コマ目をあなたが雪上で真似た時の感覚はどうだろう。どこに力が入り、どこがいつもと違うのかをつかむのだ。
そして、これと同じ感覚になるよう、あなたの頭で体に命令する。
命令を続けるうちに体が覚えてくれる。そうなれば、もう命令する必要はない、きれいさっぱり忘れて楽しく滑ろう。
教科書どおりやる事より、あなたが自分の感覚として、つかむ事が一番大切なのだ。
いたずらばかりしないで!
胎内スキー場のナイターは第一、第二、第三ゲレンデで営業している。
この第三ゲレンデの下部斜面から第二ゲレンデへ続く斜面は、圧雪車も登れないので、急斜面に新雪が残る。我々は、いつも楽しんでここを滑っていた。
ある日ナイター終了後、ゲレンデ内にお客さんがいない事を確認しながら降りて行くと、途中に校長がいた。
「仁、もう、お客さんもいないから、ここから学校まで直滑降してみろ。」
「はい」と答えたわたしは、いつも新雪を楽しむ斜面に向かい滑り出す。
そこから第二ゲレンデを滑り、ロッジ前でカッコ良く止まる事をイメージして。
慣れ親しんだゲレンデ、何十回も滑ったゲレンデ・・・おかしな事が起こるはずなどない。
ところが、私は裏切られた。
第三ゲレンデから続く急斜面を滑っているはずなのに・・・飛んでいた。
着地した私は、次の瞬間、恐怖を感じ斜面の雪にしがみつく。
何秒ぐらい経っただろうか、下からなにか丸いものを持った人物が、駆け上がってくる・・・校長である。彼の持ち物は・・・メジャーだった。
スキー学校を見ると、窓からいくつかの人影が見える、きっと笑っているのだろう。
校長はメジャーの端を私に持たせると「仁、飛び出したところまで登ってみろ。」と言った。そして計測された距離は・・・33mだった。
スキー教師達は皆いたずら好きだ。
その経験から、この程度課題を与えてやると、こんな結果になると言うことをわかっている。そして、その通りの結果になると大変喜ぶ。
とにかくスキーに関しては大変単純に反応して行く。
指導員達がこれほど単純にスキーを理解しているのだ、皆さんにとってスキーは、もっともっと簡単であるべきではないだろうか。
もっと単純に、簡単に考え反応しよう、「手をまえにだして」と言われたら、とにかくたくさん出してみよう。
初めてスキーをする人にとって、確かに難しいし恐ろしいかもしれない。だからこそ、簡単に考えよう。
ピタリとくれば超簡単
足元が滑って立っていられない、それはあなたが悪いのではない。
雪の上でツルツル滑るスキーを履いて、その上斜面に立とうというのだから当たり前の事。スキーを履いて斜面に立つと言う感覚を、自分の中で整理する事だ。床の上に立つのと何処かが違うはずである、この何処が違うかをつかむ事だ。
果たしてスキー教師達は、「先生はどんな感覚で、立っているのですか?」と聞かれた時、答えられるだろうか、「山側のエッジを使って」などと答えるかもしれない。しかし、今のあなたに必要なのはそんなことではない。
例えば「ヤジロベーになったつもりで」というのはどうだろう。
もし、これがあなたの感覚にピタリとくれば、簡単に立てるのである。
受けてみなけりゃわからない
そして3月に入り、隊長は用事で実家へ帰る事になり休みを取った。
例のごとく校長と酒を飲んでいると、
校長「仁、あさって2級受けろ。」
仁 「無理ですよ。」
校長「あさって取らなければ、来週1級受けられないよ。」
この来週と言う日が、胎内では最後のバッジテストだった。
仁 「自信ないです。」
校長「最後のテストで取れなければ、お前来年クビだよ。ダメなら、よそのスキー場へ行ってでも、今年中に取らなければだめだ。」
仁 「・・・・」
校長「検定員が言うんだから大丈夫だ。」
仁 「本当に大丈夫ですか?」
校長「受けてみなきゃ、わかんないよ。」
こんなやり取りの後、わたしの受験は決められた。
校長「そろそろ寝るか。」
仁 「・・・」
布団に入りこみ、私が次の言葉を発しようとした時、校長はもう夢の中にいるようだった。
第2章 検定 そして仲間入り
自信を持って
とうとう3月10日、2級受験の日になった。
バッジテストを受けた事のある方も多いと思うが、大変緊張するものである。朝一番でゲレンデの巡回を終え、スキー学校に戻ると皆楽しそうだ。
主任講師の和田さんには「仁、点の足りない時は、1点1000円でたすから・・・」といってからかわれた。彼はとにかく細いのだが、抜群のスキーセンスを持つ男で、ある日突然上手くなっていたと言う人かもしれない。実際にはコツコツ練習していたが・・・。とにかく全員でプレッシャーをかけてくれる。
パトロールのヤッケ以外スキーウェアなど持っていない私に、セーターと帽子、ゴーグルが貸し出された。
「仁、私のセーター貸すんだから、トップ合格しなきゃだめだからね!」
常勤講師の中、紅一点、丹後さんのお言葉をいただいた私は、ゼッケン1番をつけ受験者の列に入っていった。
1,2級受験者に使用斜面、順番などが説明されリフトで上がって行く。
リフト係の父ちゃん達も今日の事は知っていて、頑張るように言ってくれる。
最初の種目パラレルターン。
当然ゼッケン1番から滑る。検定は本間 昌二さんを主任検定員に始められた。昌二さんは、いつもニコニコしていて酒が好きだ。これからバッジテストを目指す方にとって大変興味のあるところだと思うが、検定中は何をどうしたか、まったく覚えていないので書く事が出来ない。
よく、「検定員の近くに行ってから、こうした、ああした。」とか「滑り出しは大回りのほうが点が出そうだから大回りで滑った。」などと、受験生同士で話しているのを耳にする事があるが、この頃の私にとっては信じられないことだった。
私の場合、「飛ばしていこう」と思えば、そのことしか頭になかったし、「確実に降りて行こう」と思えば、確実に、確実にと頭の中で繰り返しているのが精一杯だった。とてもではないが「3回転したら小回りを入れて」などと考えられなかった。
検定と言う事で、ただでさえ緊張しているのだ。
難しいことを考えればますます緊張するではないか、難しい事を考える必要はない。日頃あなたが積み重ねてきたものが、その滑りに集約されるのだ。
さあ、自信を持って!
点数が教えてくれるよ
受験しなければ合格などするわけがない。結果が出れば、点数があなたに足りないものを教えてくれる!また練習して受ければいいではないか。
検定員は常に研修会でその目を養っている、出された点数は素直に信じてよい。例えばある種目で68点だったとしよう、この結果をどう受け止めるか?「いつもはもっと、切れのいいカービングで滑れるのですが、3回転目がずれてしまって。」などと言う人がいる。そんな事はありえない、いつも出来る事しか出来ないのだ。3回転目がどうのこうのではない、すべてダメなのである。仮に1級の検定で、すべてのターンを力強く美しいカービングで・・・などと言ったら、合格者など出ない。
何度も言うように指導員だって、すべてのターンを完璧になどできないのだ。こんな事を言う人は、その考え方を改める必要がある。検定員は勉強をしてその資格を取る。「ああ、この人は3回転目に失敗したからダメ。」といい、
68点を出す事などありえない、スキーは失敗して当たり前なのだから。
転んだって大丈夫!
極端な話、1種目くらい転んだって大丈夫、合格点は出るのである。
事実私は、指導員検定の時2種目で転んでしまった。しかし、きちんと合格している。(詳しい事は後で)
1級の検定でも5種目ほどある中、この受験者が上手で72点を平均して出す力があったとしよう。4種目を終えて8点オーバー5種目めで転んで66点がでた。しかし合計点は4点オーバー、見事な合格ではないか。しかも4点オーバーするくらいだ、そうとう上手いと言えないだろうか。そう、細かい事は考えなくていい。
スキー教師に「バッジテストをうけたい。」と言って相談すればいい。
スキー教師はあなたが合格するために足りないものを、目の前で4回転もしてくれれば、すべて見つけ出してくれる。
そして、「こうしなさい」と言われたら・・・ここまで読み進めていただけばおわかりだと思う、スキー教師の説明を自分の感覚として理解し、表現して行けばよい。ほら、もう目の前に合格が見えてきただろう。
2級合格
2級の検定も終わり、スキー学校に戻りパトロールのヤッケに着替えると、少し落ち着いたが、別室では得点の集計が始まっている。
私は何とも言えない気分で山頂から第6ゲレンデを目指した。
第6ゲレンデの下に小さなパトロール詰め所があり、日曜日には常時2人のパトロールがいる。ここの主、隆二さん(もちろん1級)は校長の弟で、仕事が休みの日曜日には山に上がってきてパトロールをする。
「仁、検定終わった?」 「はい、おわりました。」こう答えると、それ以上は何も聞こうとしなかった。私は、一番奥に座ると居眠りを始めたらしい、とにかくクタクタに疲れていた。
そして合格発表の時間になり、スキー学校には結果が張り出されるが、私はそこから動けないまま、リフト運転終了時間になる。
第6ゲレンデから山頂に上がると、スキー学校とパトロールが集結していた。このとき下から上がってくる連中はもちろん結果を知っている。なぜか、皆寂しそうな目で私を見て「合格してた。」と言ったりするので、自信のない私はかえって不安になってしまう。
そして一番時間のかかる林間コースを夕暮れの中降りていった。
スキー学校に戻ると、丹後さんが「仁、早くお金払いに来なきゃダメじゃない、1点1000円だから5000円ね。」私は内心、5点も足りないのか・・と思った。
少し悲しくなりかけた時、テーブルの上に合格証とバッジ、成績表が置かれた。
292点、12点オーバーのトップ合格だった。
スキー暦は何年?
さて、まったく滑れない人が1シーズンで2級、1級と合格する、こんな事はあり得ないと思うかもしれない。しかし、私は当然の事だと思う。
一般のスキーヤーが年間15日滑るとしよう、朝からナイターまで、食事などの時間を除いて約10時間滑れば、15日×10時間=150時間。
私はと言うと、12月25日から3月10日まで約2ヶ月半、実際にスキーで滑る時間を5時間としよう、5時間×75日=375時間、どうだろう普通の人の2年分以上滑っているのだ。
したがって、皆さんは今の状態で続けても、3年目には確実に1級に合格できるということではないか。
それでも難しいのはなぜか? 練習方法が間違っているか、考え方が違うのだ。まだ、2級をとる以前の私の目標は? ここまで読み進めていただいた方には、たくさんのヒントがあったと思う。
検定の行われる斜面を4回転で滑る事でもシュテムターンでも、大回りから小回りにする事でもないのだ。
時にはリフトの下(新雪)を転ばずに滑る事、コブ斜面を転ばずに滑る事、中央ゲレンデを直滑降する事・・・練習方法は何度も何度も繰り返す事だった。
だからこそ、いろいろな感覚が身に付いたのではないだろうか。シュテムターンを教えてもらっても、ウェーデルンを教えてもらっても出来なかった。しかし、新しい事を教わり練習方法を知ると数日後には出来るようになった。
皆さんは、どのようなところでも転ばずに滑るという事が目標だろうか? 検定種目や技術のことばかり考えていないだろうか、スキーを覚える時に大切な事は何か?それは経験である。
子供達が誰に教わるでもなく、いつのまにか上手くなって行くのは何故か、転ばずに仲間達より速く下まで降りる事を考える。そして、それを実現させるために工夫をするのだ、この工夫が技術なのではないだろうか。
まず、転ばないためにスキーをはの字にする、速く滑るために平行に近づける、急斜面でスピードが出過ぎて転ぶ事がないように細かく回る。
さあ、皆さんも子供に戻ろう。テクニックばかりに走らず、転ばずに滑る事だけを考えて。今すぐ子供に戻っても3年後には1級を取れる。
すでに何年もスキーを続けている人なら、この時間はもっと短縮できるに違いないし、年間の滑走日数が少ない人は、それを補うためにスキー学校を利用すればいい。
スキー教師は少しでも早く、あなたが上手くなるのに必要なことをアドバイスしてくれる。そのアドバイスをあなたが、あなた自身の感覚として理解するのだ。そして再び壁にぶつかったら、アドバイスを求めよう。
一度に多くを望んでもダメだ、ひとつひとつ自分の物にして行こう。
これは本当に合格祝いですか?
スキー教師は本当に単純だ。この夜、我々の寮で合格祝いである。
狭い部屋に十数人が入り込み、酒を飲む。スキー教師達は、何か理由をつけては酒を飲みたいだけかもしれない。何処のスキー学校でも、メンバーが準指導員や指導員検定に合格すれば合格祝いをすると思うが、たかが2級だ。2級でこの騒ぎである。
きっと、私が2級に合格すると言う事は、身内の誰かが司法試験に受かったようなものかもしれない。
酒も進み盛り上がると、もう2級の合格祝いは忘れられ、来週の1級受験に向けた、大プレッシャー大会へと変身して行くのだった。
1級受験前日特別講習BY校長andマーさん
翌日から再び不安との戦いが始まる。
そして1週間、3月16日検定前日の事だった。朝のパトロールを終えスキー学校へ戻った私に、
校長「仁、明日は検定だから俺と誠がレッスンしてやる。午前は誠、午後は俺だ。」
仁 「ありがとうございます。」
10時になり、わたしはマーさんとリフトに乗った。
なにしろ、この2人がマンツーマンで教えてくれるのだから、頑張らなければ。
誠 「仁、午前中はフランスの滑りをやるから。」
仁 「はい、お願いします。」
世界中の各国には、それぞれ特徴を持ったスキーメソッドがあり、スキーを理解する時に役立つ。世界中のスキー教師が集まり、各国のスキーメソッドを発表するインタースキーというのがあり、この年が開催年だったかもしれない。よくスキー学校では、このビデオを見ていた。
私はカナダの滑りが好きで、目に焼き付け真似していたように思う。
スキーはスキー。どんな時もただ安全に確実に滑り降りて行けば良いのだが、目の前で指導員から教えられればこの滑り方が一番いいように思えてくる。
マーさんの言う事を簡単に再現できるわけではないが、ただただ真似して滑るのだった。そして、説明を聞くと頭が混乱する。
午後になり校長とリフトに乗る。
校長「仁、午後はドイツの滑りにしよう。」
仁 「はい」
何度か書いたと思うが、スキー教師達は今この人にどのような課題を与えるとどのような結果になるのかがわかっている。このときの校長とマーさんもそうだったと思う。なにしろ二人がかりで大まじめに教えてくれるのだから、私はどちらのスキーをマスターすればいいのかさえ、解らなくなった。
今までやってきた事よりフランスやドイツのほうがいいのかな?などと思い始めるのだ。
皆さんに言いたいのは、スキーはスキー。いろいろな技術を使い、いろいろな状況を滑る事が目標なのだ。ある程度上手くなれば多くの感覚をつかむためにも、いろいろな滑りに挑戦していけばいいのだ。
この日2人が、私に一番教えたかったのはこのことだと思う。
そして3時30分、マーさんも合流してゲレンデの端で。
校長「仁、何とか解ったか?」
仁 「感じはつかめましたから練習します。フランスとドイツのどちらがいいんですか?」
二人が顔を見合わせて笑った・・・いやな予感がする。
校長「仁、今日やった事は今の君にまったく関係ないから全部忘れなさい。」
仁 「・・・ありがとうございました?」
そして、二人は中央ゲレンデを風のように滑り降りていったのだった。
その後姿を見つめる私の頭の中は・・・真っ白になった。
最終パトロールを終えた私は、明日に備え練習するため、慌ててスキー学校を出ようとした。
校長「仁、仕事が終わったら一杯やるから、鍋でも用意しといてくれ。」
仁 「でも、明日は検定だし練習しないと。」
校長「いまさらやっても無駄だから、風呂でも入ってゆっくりしろ。」
仁 「でも・・・」
校長「いいから帰れ。今日はスキーしたらダメだ。」
仁 「はい、お先に失礼します。」そして、部屋に戻り鍋の用意をして皆が仕事を終えるのを待った。いつものように酒飲みが始まる。
仁 「マーさん、どうしてフランスだったんですか?」
誠 「校長が、フランスにしろって言うからさ。」
仁 「どうしてドイツだったんですか?」
校長「別に意味はないよ。」
仁 「だったら、ステップターンのほうが良かったんじゃないですか?」
校長「バカ、ステップターンもへったくれもないよ、明日は自分の滑りをすればいいの。もしステップターンの時に仁がドイツの滑りをしても、上手かったら合格するよ。」
確かに、検定は皆さんにとって大きな目標かもしれない。しかし、あまりにも種目にこだわりすぎる練習は良くない。それぞれの種目を見た目で判断するのではなく、何度も繰り返すが自分自身の感覚として理解する事が大切なのだ。
おにぎりを作る時、手で形を整えるのだが、ご飯がなければおにぎりは作れない。このご飯が自分の感覚だと思えばよい。先に形を作ろうとしても、上手く行くはずがないのだ。
自分の感覚が出来てから、形を整えて行こう。
昼間、真っ白になった私だが、このことが少し理解できたように思う。しかし、
明日は1級の検定だ!ほとんど眠れずに朝を迎えることになった。
バッジテスト受験と心構え!
3月17日、先週と同じように朝の仕事を終えスキー学校へ戻ると、先週とは違うセーターが用意されていた。
スキー教師達は後輩や生徒の上達を自分の事のように喜ぶ。
長谷川先生は50歳を超えていたが、いつも私が上達しているのを見ると、「ズンちゃん、がんばれよ。」(ジンと言う発音がこうなる)と言って、本当に嬉しそうな顔で笑ってくれた。
さて検定員は校長を主任に長谷川さんと佐藤 康文さん、ウェーデルンの練習で登場した。本番の内容は、2級の時と同じであまり覚えていない。普段やっているように滑っただけだ。
バッジテスト受験を目指す方に言いたいのは、とにかく難しい事は考えず、いつもと同じ滑りを心がける事。前日に検定のポイントを書いたような本を読み、本番で気にしても無駄な事だ。
あの雰囲気の中で、落ち着いて常に考えながら滑るなんて出来るわけがない。もしそれができたとしても、あなたの脚は一度も命令された事のない動きを、その時だけしてくれるわけがない。何度も何度も命令してその動きを体に覚えこませて、初めて出来るようになるのだから。
あなたの積み重ねてきたものが滑りに現れる、それ以下でもそれ以上でもない。たまたまゼッケン1番の人が滑り終わったときに大雪が降り始めた。もしその後に滑る人が全員不合格だったとしても、1番の人は運が良かったわけでもなんでもない。
だってそうだろう、スキーは雪がなければできないのだから。
原因があるとすれば、不合格だった人達はあまりにも検定にこだわり、検定に使われると思われる斜面で、検定用の滑りばかり練習していたのではないだろうか。
何度も言うようにそれぞれの種目を、形だけ真似てもダメだ。
あなたの感覚で理解し、表現しなければ。自分自身の感覚がしっかりしていれば、雪が降ろうが関係はない。それなのに検定用の本を読み、そのとおり滑ろうとばかりする。良く考えてほしい、このような本を書くのは上手い人なのである。
この人の言葉を理解するには、この人のレベルに達してからでなければ出来るわけがないではないか。だからこそ、今のあなたの感覚で理解する事が一番大切なのだ。
積み重ねてきたものしか見えないよ!
私にも2人の子供がいるが、子供に文字を教えるとしよう。彼らはペンの持ち方すら知らないのだから、文字など書けるわけがない。しかし、親も知らないうちにペンを持つようになる。そう、自分で人の真似をして、ペンを持つ感覚をつかむのだ。そして自由に動かせるようになる。
ここまでくれば文字を教えられる。スキーだって同じ事だ。スキー教師に出来る事は、あなたがあなた自身の感覚をつかむために知恵を出すことなのだ。したがって、あなた自身の感覚としてつかませる事の出来ないスキー教師など失格なのだ。
果たしてスキー学校に入る人達は、自分で「あっ、これは今までと違う!」と言う感覚を得ているのだろうか?スキー教師に「はい、それでいいです。」と言われると、それでいいと思っているのではないだろうか?
その時、自分が上手くなった事を実感しているのだろうか?
自分が何も感じていないのに納得してはいけない。高いお金を払ってスキー学校に入るのだから、何かを覚えて帰らなければいけない。
その何かとは? 自分自身の感覚としてつかむ事なのだ。
私には、「上手くなったと思える瞬間が、何度もあった。」それは検定用の滑りが出来た時ではない、新雪を転ばずに降りられた時などに感じた。何回転もする間に自分のよいと思う感覚が、何度か連続して出来た時に感じたりした。こうして少しずつ自分の感覚を高めて行くのだ。
検定だって同じ事、高いお金を払って受験するのだから、検定員のご機嫌を伺う必要などない。「俺の滑りを見せてやる。」位の気持ちで受ければ良い、検定のポイントというような細かい事を考える必要などない。
なにしろ相手はプロなのだから、あなたの滑りを判断する力を十分に持っている。
何度も言うように、あなたが積み重ねてきたものしか、検定員には見えないのである。
言い訳をしても上手くならないよ!
ここまでの内容から想像もつくと思うが、私はこの日1級に合格する。
それは、練習をして受験した結果であり、師に恵まれ、環境に恵まれた成果なのだ。しかし私が、その環境に入り込む事をしなかったらどうだろう?間違った理解の仕方をしていたらどうだろう?
たった3ヶ月で1級など取れるはずがない。
あなたは仕事を持ち、休みを利用してスキーに行く。やるからには上手くなりたい、バッジテストにも合格したい。1級を持つ人がテクニカルを取りたいと思うのは当然の事だ。
それなのに、あなたは「休みが取れなくて」とか「あのスキー教師の言う事がわからない」などと言ってないだろうか?自分では何も考えず、スキー教師の言う事をそのまま理解しようとする・・・。
あなたの感覚は何処にあるの?そうあなたの中にあるのだ。自分の頭を使い自分自身の感覚で理解しよう、言い訳をしても何も変わらないのだ。どんなにスキーを出来る時間が短くても、3年もすれば1級は取れるのである。
ただ、あなたがその間何を考え、どのように練習するかを間違わなければ! この辺で話を戻そう。
例のごとく「1点いくら」などと言いながら、合格発表の時間になる。このときの私は、合格、不合格に対して不安などなくなっていた。自分のいつもの滑りが評価されるのだ、ダメなものはダメ、いいものはいいのだから。
スキー学校の前に張り出される成績表を、他の受験者とともに見る事が出来た。360点10点オーバーの合格であった。ついに1級を取った。やっと仲間入りが出来た。スキー教師になるためのスタートラインに立ったのである。
昔の胎内スキー学校では1級の合格祝いに、合格者は第2ゲレンデの直滑降をやらされたらしい。(スキー学校関係者だけ)
ここは、急斜面にコブが並びなかなか手強い。ある人は検定が終わり合格証を手にしたその日、これをやらされ骨折、いきなり1級に合格した日に病院送りになってしまったらしい。
本当にスキー教師達はイタズラ好きである。
私の時は、普段から皆が楽しめるような事をやらされていたので、これは免除されたようだ。
この日もまた先週に続き、皆疲れも見せず、合格祝いといっては・・・飲み続けるのであった。
ひとつひとつ頭を使って自分の物にしよう!
これから上達を目指す方やスキーをはじめようと思う方に言いたい。いろいろな事を一度にやろうとしてもダメだ。
例えば、一つ回ってスットックをついて、エッジングしてなどといっても出来なくて当たり前だ。
何度も何度も繰り返すが、スキー教師はあなたに今一番必要と思われる事を提案する。したがって、言われた事だけに集中すればいい。
「膝をまげる」と言われれば膝を曲げる事だけを考え、膝に命令する。
この命令は1度や2度で膝が覚えるものではない、何度も命令して思いどうり動くようになれば、忘れていい。そして、次の事を覚えこませて行く。
何故かと言えば私のように毎日滑る者でも、1度にいろいろ出来るようにならないのに、週に1度しか滑れない人がそれ以上のことを考えても、難しいものがなおさら難しくなるだけだ。
難しい事をやろうとしても出来ないのが当たり前なのだから、もっともっと簡単に考えよう。スキーが上手くならないのは、自分の感覚としてとらえる事が出来ないだけの事、もっと頭を使おう。
頭を使うと言っても、シュテムターンは切換えで山スキーをはの字に開いて、引き寄せて回る、という事を覚えるのではなく、感覚としてつかむのだ。
あなたにとってはヒョイヒョイかもしれない、私にはグニャーと開いてポーンと言う感じだろうか。
前にも書いたが、関取が滑ってくるのを私が表現すれば、「ドー」となるが、彼に言わせると「キーン」だったりする、一人一人感覚は違うはずだ。
だからこそ、皆さんの感覚を大切にしてほしい。自分の感覚として理解できるまで、何度も同じ練習を続けていただきたい!
誰だって練習すれば指導員になれるよ!
さて、こうして私の最初のシーズンは終わりを迎える。
少しは参考になっただろうか?まだまだ指導員への道は長い。今だから後4年と言えるけれど、このときの私には、まだ準指導員すら遠い世界だった。
明日スキー場を去ると言う日、お別れ会と言っては酒を飲んでいた。
「仁も来年、もう一年様子を見て準指導員だな。」
校長がポツリと言った。
ひょとすると、私も指導員になれるかもしれない?と内心思った。
2級も1級もすべて、校長の言うとおり合格できたのだから。
最後の朝、私達は荷物を車に積み込み、お世話になった人達に挨拶を終えた。リフトの父ちゃん達はワイヤーからリフトを取り外す作業を始めており、ゲレンデの雪も消え、ところどころ草も生え始めていた。
出発の時間だ。
私は場内放送のスイッチを入れると、「パトロールです。皆さんいろいろありがとうございました。また、来シーズン必ず帰ってきます。サヨウナラ。」とマイクに向かい叫んだ。
そして車に乗りこむと、雪も消え乾ききった道路を、大阪に向けて走って行くのだった。(1986、4)
第3章 準指導員への道
1985年12月、22歳と8ヶ月。 私にとってスキー場で過ごす2シーズン目が訪れた。この年もまた夏は山で過ごしたが、とにかく毎日冬が待ち通しかった。
さて、先シーズン1級に合格した私の、本当の意味での上達はこの年から始まる。ほとんど転ぶ事もなく、どのような斜面でも滑り降りて行けるようになり、ここから自分の滑りに肉付けをして洗練させて行く段階なのだ。
1級の上にはテクニカルプライズ、クラウンプライズという最上ランクのバッジテストがある。
これに対し準指導員、指導員というのは、スキー教師として働くための資格で、指導方法なども学んで行く事になる。準指導員、指導員を持ちながら、テクニカルやクラウンを受ける人もいるようだ。
スキー教師は当然、生徒さんに理解しやすいように滑って見せる力、演技力や指導力も必要だ。
私達のように指導員を目指す者は、それなりの活動も要求される。
スキー学校で仕事をする人も多く、日々スキーに対する考え方や、何を基準に上手いと決めるかなどを叩き込まれて行く。しかし、クラウンやテクニカルを目指す人達は休みを利用して練習する方が多く、この事を理解しにくく不合格を繰り返す方も多いと思う。
このレベルになるとスキー雑誌などを読み、大変勉強している方が多い。
しかし、どれほど勉強して言葉を並べてもダメな事は何度も申し上げている。
私なんかは、「スキーの開き具合がどうの」「外向傾がどうの」と言われると、「難しい事は良くわからない」と言いたくなる。要するに自分の感覚としてつかんでいれば良いのであって、この一番大切な部分を無視していては上手くなるはずがない。
「ターンの後半にしっかりとスキーに乗って」といわれても、どうすればスキーに乗れるのかがわからなければ、何も出来ない。
検定を受けても不合格になる人は、自分ではスキーにしっかり乗っているつもりでも、結果は乗れていないために不合格なのだ。このことを理解できない人は、「3回転目にスキーがずれてしまったから」などと言うのではないだろうか。
これから1級やテクニカル、クラウンを目指す人は、少しでも早く考え方を変えよう。もっと高いレベルで自分の感覚を磨いて行こう。
今のまま滑っていれば転ぶ事もなくどんな斜面でも降りて行ける、そんな上級者達も自分にない新しい感覚を身につけようと今以上のことをすれば痛い思いをする。それでもスキーは理屈ではない、自分の感覚を上げて行くしかない。
この頃の私はスピードとバランスを高める事しか考えていなかった。20歳で初めてスキーを履いた人間が、子供の頃から活躍し、デモンストレーターになったりワールドカップにでたりする人達に追いつく事は不可能だろう。
しかし、上達を目指すなら少しでも近づかなければ・・・その思いだけは忘れてはいけない。
私はこの頃自分の限界スピードを上げることと、条件の悪いところを滑ることばかり実践した。限界スピードを超え何かをすると、そのスピードが高くなればなる程痛い思いをする。
晴れた日は中央ゲレンデで直滑降をしながら、途中で片足を上げてみたりするのだった。
悪条件を克服しよう
スピードとともに、バランスを養うため条件の悪いところを滑ろう。雪の降った次の日には、必ずチャレンジコースへ行った。
格好も技術も関係ない、転ばずに降りる事だけを考える。
深雪はスキーをはの字にしていては滑れないから、出来る限りそろえる事を考えるようになる。でも、ピッタリそろえる必要がない事が解ってくる。
なかなか上手くスキーが回らないから、無理やりトップから引き抜いてまわそうとする。前に乗ったり、後ろに乗ったりするので、足がパンパンになってくるし、前に乗りすぎるとトップが沈んで、顔から突っ込むことになる。
このことが自分で理解できれば、次の段階に進める。前に乗っても大変、後ろに乗れば疲れてしまう、「そうか、真中にのればいいのだ」
出来る限り真中に乗ろうとするなら、普段の滑りと何も変わらないではないか。もちろんいつも真中に乗れるわけではない。しかし、いままで整地された斜面とは違うと思っていたが、同じ感覚として理解できるようになる。
あなたの感覚がアップすれば、どんな斜面も同じ感覚で滑れるようになる。こうして同じ感覚で滑れるようになると、ますますスキーは簡単にならないだろうか?
この頃の私は、お客さんがリフトから物を落とすのが嬉しくて、誰よりも早く拾いに行った。手袋や帽子などは簡単で、普通にすべればいい。しかし、たまにスキーを落とす人もいた。
これは少しやっかいで、新雪をスキーを持ちながら滑るのだから、なかなか手強い。転べばリフトから笑い声が聞こえ、大変恥ずかしい。練習するしかない!
チャレンジコースへスコップを持って行き、転ばずに降りて行ければもう大丈夫。ついでに片足のスキーをはずしてやってみるが、まったく出来ずにあきらめた。
皆さんに伝えたいのは、上手くなったら「コブ斜面を滑ろう」とか「新雪を滑ろう」などと思っていても、いざ上手くなってそこへ行くと必ず転ぶと言う事だ。それなら少しでも早く入って行こう。
そして、少しでもいいからその感覚をつかんでしまおう。よく、滑れないのに上級コースへ入り、あきらめて歩いて降りる人がいるが、これは絶対にやってはいけない。
滑れないのに上級コースへ行くのがいけないと言っているのではなく、歩いて降りる事がいけないと言っているのだ。
あなたはスキー場に滑るために来たのだ。
スキー場に歩くために来たのではないだろう。あとは挑戦あるのみ、どうしても怖かったら、せめて片足だけでもスキーは着けておこう、それでも少しはエッジの使い方が解るはずだ。
スピードとバランス、この二つを克服したい。そして、正反対ではあるが、基本的な操作、プルークボーゲンなども練習して行こう。
不思議なもので、あなたの限界スピードがいくらか上がってくると、今まで出来なかった事が簡単に出来たりするし、言われても解らなかった事が簡単にわかったりする。確実に新しい感覚が、あなたの中に生まれているのだ。
順調に1級を取り、準指導員に向けて練習する日々、とにかくいろいろな事をやった。先輩達はいろいろな練習方法を知っている、とにかく何でもやってみよう。中には、とても練習とは思えないものもあるかもしれないが?
練習方法
さて、練習法だが、小回りを覚える時には上体と脚の逆ひねりを意識するため急制動を練習したり、はの字で回る感覚をつかむために、膝をさわったりするなどいろいろだ。
教科書もあるし、スキー教師達もあなたに必要な練習方法をアドバイスしてくれるだろう。当然我々のいた世界では、片足で滑ったりと言う練習はするが、上手くなればある程度出来てしまうからつまらない。
そこで、自分だけに出来て、周りの人が出来ないことを考えるのだった。
仕事もなく皆で滑っているときに、これをやると大変面白いが、どんどんエスカレートする。
もし、自分にしか出来ない事を見つければ、自分が一番上手いのだからと思い、いろいろ考える。しかし、次の日には攻略されてしまうから、もっとおかしなことを考える。
「誰かが後ろ向きでシュテムターンをしよう」と言い出す。斜面の上を向いて滑りながら山開きのシュテムターンができると、つぎは谷開き、ほとんどみんな簡単にやってしまう。
すると、スキーを反対につける、カカトを金具の前にいれつま先で後ろを踏みこみ、滑り始める。当然スキーはしっかり固定されないから、途中で外れて転ぶ、転べば皆大笑いだ。
そして何を言い出すかと思えば、「スキーがはずれるのは、真中に乗っていないからだ。」となる。ここまでくると意地になり、古くなって使わないスキーを持ち出し穴を開けなおし、金具を反対につけたりする。最後はどうなるかというと、「スキーの真中とは」と言う話になり、金具をはずしたスキーにただ乗るだけで滑り始める・・・出来るわけがない。
何度も書いてきたが、出来ない事を出来るようにするため練習するのだが、ここまでとくると練習とは言えないかもしれない? それでも、嬉々とした顔で必死で考えたりする。
そのうちジャンプ台を作り、伸身後方一回転などと言い出す始末だ。
フリースタイルスキーではないけれど、2メートルのスキーで練習する。サングラスは何個も壊れるし、首から落ちて息は出来ないし、大変痛い思いをするばかり、こんな調子で集まるとわいわいやっていた。
バカな事かもしれないが、こんなことを続けるうちに、スキーの真中に乗っているようになる。変わった事をしようと思えば、いつでもスキーを操作出来る所、つまり一番操作しやすいところに乗っていなければならない。
違うところに乗っていたのではできないのだ。
もしも、こんなバカな事をしながら、いいところに乗れるようになるとしたら、これが一番大切な練習かもしれない。大笑いしながら身につくのだから、バカな事と思わず、子供のように楽しんでみるのもよいだろう、案外バカにしたものでもないと思う。
物まね大作戦!
この頃楽しみながら力を入れていたのが、物まねと飛ぶ事だった。カッコなどどうでも良い、とにかく飛ぶのだ。皆さんは他のスキーヤーもいて、危険もあるので良く注意して、出来る時にやってみよう。
中でも面白かったのが、ジャンプの真似だ。
テレビでしか見た事はないが、ラージヒルとかスモールヒルとかいうやつだ。この時はジャンプの選手になりきろう。飛び出したらスキーをV字にして、着地する時は、スキーを前後に開き両手を大きく開く。出来れば、止まったらすぐにスキーをはずし、選手達がカメラに向かいスキーのデザインを見せるようなところまで真似しよう。
おかしな事と思われるかもしれないが、いろいろな人を観察し真似る事で、今までと違った感覚が身につく。例えば、手の構えを変えるだけで今までの自分のバランスは確実に崩れてしまう、大袈裟に変えると回れなくなったりするから面白いのだ。
いろいろな人の特徴を真似ると自分は滑りにくくて仕方ないのに、その人は上手く滑っている。感覚は人それぞれなのだ。
「こんな風に滑ってみなさい」と言われた時、今自分の持つ感覚で滑ると、相手から見て何も変わっていない。それでは、上手くなっていない、出来ていないのではないだろうか。まして、指導者を目指すなら、その生徒が理解しやすい滑りを見せてあげなければならない。
普段から、いろいろな人の真似をして自分の感覚との違いを確かめよう。
物まねは、本人の前でもやった。
「俺は、そんなカッコで滑ってないよ」と言われたら聞いてみる、「どんな感じで滑っているのですか?」 そうすると、自分の感覚を説明してくれる。
それを自分の感覚におきかえ、いろいろな所を滑ってみよう、そのうち状況に応じて、どうすれば一番安定して滑れるかがわかってくる。
はじめて自分のすべりを見たよ!
ここへ来て2シーズン目、私は初めて自分の滑りを見る事になった。
先生方は、たまにビデオを撮ってはスキー学校で見ていたが、最初の年、私はそのようなところに入って行くことも出来なかった。
中央ゲレンデの端に一本リフトがかかっていて、土日の人が多い日だけ回される。リフトの停止に備えリフトの支柱沿いに圧雪車一台分だけ急斜面が整備されるのだった。
すぐ横にはリフトの支柱があり危険だからお客さんは滑れない。
ここである日曜日の夕方ビデオを撮っていた。
私はセイボウと巡回中に通りかかったので滑らせてもらった。幅4mほどしかないので当然小回りで滑る。一本滑ると仕事に戻った。
最終パトロールを終えスキー学校に行くと皆でビデオを見ている。
私が自分の滑りを見た感想は、確かにカッコは悪いけど十分に上手いと思われた。滑っている最中はバタバタして全然ダメな感じだったけれど、実際にはきちんと滑り降りている。そして思わず
仁 「俺って、結構上手いんですね」とマーさんに言った。すると
誠 「もしかしたら仁がスキー学校で一番上手いかもしれないな、カッコ悪いけどリフトの下でもどこでも絶対に転ばないもんな」
この頃私は、誰もいない時には自分の限界スピードを上げるために、コブ斜面を実力以上に飛ばしたりして転ぶ事もしょちゅうだったが、誰かがいるときには絶対に転ばないようにしていた。
いくら練習しているパトロールでも、リフトの下へ行き深雪の中をスキーをもって滑れば転ぶ事も多いし、手袋などでも転んでしまうことがある。
何を持って上手いと決めるかと言う基準が転ばない事ならば、私だってなかなか上手い事になる。
もちろん私の基準はその通りだったから、こんなに嬉しい事はない。
この時、マーさんや私が上手いというのは、決して誰よりも上手いのでもなく、1級のレベルにあるのでもなく、ただ漠然と上手いのであって、そこには指導員がどうのこうのというものは全くない。
次に自分の滑りを見たのは準指導員に合格した次の年だったと思う。その時は自分のイメージする映像と違いすぎて、二度と自分の滑りは見たくないと思った。
まだ1級のときは、自分がどんな姿で滑っているのかと言うイメージも鮮明ではなかったが、上手くなるに従い、それが頭の中に鮮明に浮かぶようになる。こうなると自分の滑りを見てがっかりする事になる。
そして、指導員に合格した後に見たときは、再び上手いと思えるようになっていた。自分の頭にあるイメージに確実に近づいていたのだった。
この時、自分では前に行ったり後ろに行ったり、ストックはスムーズにでないし、スキーは開いたりと上手く行った滑りではなかった。
それなのに、撮られた映像は大きな乱れもなく、自分が思っていたよりは、はるかに良い滑りだった。
この時、本質に気がついた。自分の感覚で滑れば、体は今まで練習してきたことを再現してくれると言うことに・・・。私自身がビデオを見て美しいと思えるのだから、下で見ている人にもそう見えるに違いない。一つ一つを覚えこませた成果が、いつか全体の姿として現れて来るのだ。
皆さんもあせらずに一つずつ覚えていってほしい。
「とにかく休め」
この頃の私の日常と言えば、昨年と同じで朝一番にゲレンデを見に行く。
もちろん前日の様子や雪の状態から判断して、仕事が少ないようなら朝一番は中央ゲレンデやチャレンジコースだ。
ただ、パトロールは仕事も多く自由に滑ってばかりいられない。朝からずっとスコップを持っていなければならない事も多く、単純に一日何時間滑れるというものでもない。12時に戻ると昼食を済ませ12時30分にはゲレンデに出て、最終パトロールが終われば夕食、すぐに練習と言う日々だ。
校長は我々の部屋(医務室)に顔を出すと、外へ出ようとする私に「仁、とにかく休め」と言う。私はスキー靴を脱ぐと休むフリをするが、そう長い間じっとしてられない校長(性格)が出て行くと、すぐに用意してゲレンデに向かう。
いつもこの調子だから、校長は私の顔を見ると「とにかく休め」を連発する事になる。
当時の私は1級で、先生方に言われる事が何一つ出来なくて、とにかく練習するしかなかった。いろいろな事をやらされるけれど、どれもこれも出来ないから1日24時間と言うのは短すぎるくらいだった。
おかしな話だが、準指導員に合格して帰ってくると、それまで「ああだ、こうだ」と教えてくれていた準指導員の先生方は、一緒に滑る事があっても「ああだ、こうだ」とは言ってくれなくなる。指導員に合格して帰ってくれば指導員の先生方も同じだ。
しかし、まだ1級だった私は、午前中に教えてもらった事が出来ないうちに、午後には違う事を指摘されてしまう。まだ、自分の感覚もしかっりしていないし、上手くないから二つも三つも同時に考え出来るようになれるわけがない。
とにかく必要なのは、わからない事をつきっきりで教えてくれる先生でも、スキー教程でもない。教えてもらった事を、自分の体に覚えこませる時間だけだ。
何度も書いてきたけれど、一時間も二時間も教えてもらうなかで、ほんの数秒のことかもしれない。
「こんな感じかな?」と思った事を何度も何度も繰り返すしか、滑れるようになる道はない。
「こうして、ああして」と言われた通りに再現できると言えば、もっともっと上手くなってからの話だ。
まだそんな力のない私に、校長は「バカヤロー下手くそ」と言い、イライラしながらスキーを教え、休みなく滑り続けて壊れてしまわないかと、心配しながら見守っていてくれたに違いない。
さらに私が上手く出来ずに悩んでいる事もすっかりお見通しで、酒を飲んではバカな話ばかりしてくれたのだろう。おかげで私は、どんなに出来なくて悔しい思いをしても、毎日楽しく過ごせたわけだ。
たかがスキーだ。「楽しければいいじゃないか」などと、今でこそ笑って書いていられるが、一人で乗るリフトの上で何度涙を流した事だろう。
やってもやっても出来なくて、先輩スキー教師の教えてくれる事すら理解できず、悔しい思いをする事を数えたらきりがない。
おそらく今でも、あの頃より少しましになっただけで、全く同じ事だ。
皆さんにもあるかもしれない。
「これかな」と言うものを感じ、リフトの上で「早く着かないかな」とイライラした事。早く滑らないと忘れてしまうんじゃないかと、思ったりする。
しかし、疲労の激しい時は、何をやっても上手く行かない事が多い。
何気なくリラックスした気分で滑ったときに、上手く行く事も多いから、適当に休む事も考えよう。 あまりにも一直線では大変だ!
スキー教師はレッスンで自分の感覚を教えている
皆さんから見ると、インストラクターは皆上手くてカッコイイだろう。同じように見えるかもしれない。しかし、我々も一人一人違う感覚を持っている、この事を良く理解してほしい。
外見や操作ばかりを練習するのではなく、自分の感覚との違いを理解して、自分の感覚としてつかむのだ。レッスンの中で「これは今までと違う」と言うものをつかめたら、その感覚を再現するだけだ。
同じ事をやっても、あなたは手に力を入れた時に上手くいくと感じても、他の人は力を抜いた時に上手くいくと感じるかもしれない。スキー教師が見ていて「その感じがいいです」と言った時の感覚があなたにとって一番理解しやすいもの、その新しい感覚を大切にしよう。では新しい感覚があなたにとって心地よいものかどうか?
スキー教師は、今のあなたに一番大切と思われることを提案する。おそらく新しい感覚より今までの感覚のほうが、あなたにとっては自然だから楽だと思う。違う感覚で滑ろうとすれば今までと違うところに力を入れたり、常に頭で命令したりで大変だろう。
でも大丈夫! あなたは今新しい感覚を知る事が出来たのだ。それほど長い時間を使わなくても、しばらくの間体に命令する事であなたの体が覚えてくれる。
そうなれば忘れてしまおう。また新しい感覚を覚えて行こう。上手くなりたければ、いつも何かを体に命令しよう。
ひとつひとつ覚えこませ、覚えたら命令をはずして行こう。
ご褒美と罰
たまには、パウダースノーに出くわし嬉しくなる事もある。
こんな時は、何をやっても上手く行くし、突然上手くなったような気になる。このような状態は毎日あるわけでもないから、運良くこんな日に当たったら、休むまもなく滑り続けよう。
とにかくスキーを楽しもう。こんな時に練習のれの字も考えてはいけない。きっと、スキーの神様があなたの事を見ていて、頑張っているからご褒美をくれたに違いない。
ご褒美の次は罰が待っている。
いろいろな斜面、雪質を練習してきたのに、何をやっても上手く行かない時があるけれど、別に悲観する事はない。たまたま、その斜面に合う感覚を持ち合わせていなかっただけだ。
この時、今日は滑りにくいから休もうなどと考えてはいけない。
今持っている感覚の中から、一番合うものを探そう。もうあなただって、何度か経験しているはずだ。
何回も回る中で、一度だけ上手くいったという感覚・・・これを探すのだ。
一度でいいからこの感覚をつかむのだ。あとは、これを増やして行くだけだ。
2度、3度と出来るようになる頃には、今まで滑れなかった斜面を滑る感覚が身につき始めている。
ここまでくればしめたものだ、後は体が覚えてしまうまで滑り続けよう。
バッジテストはどう滑ればいいのだろう?
ここで検定について書いておこう。
それぞれの級によって、いろいろな種目がある訳だが、いろいろな滑りの中から、その人の技術力を見るためで合格、不合格を決めるためには仕方のない事かもしれない。しかし、それぞれの種目がまったく別の滑り方と考えてはいけない、スキーはそんなに難しいものではない。
あなたが、しっかり自分の感覚としてとらえていればいいのである。
例えば大変緩い斜面でパラレルターンをしようとしても上手くいかないし、逆に急斜面で高いスピードの中、プルークボーゲンをしようとしても同じ事だ。斜度やスピードの助けがあって、初めていろいろな滑り方が出来るのだ。
皆さんは、緩い斜面で転ぶ心配がないから、練習がしやすいと思うかもしれない。しかし、スピードがなければ自分の足元でしっかりとスキーを回さなければいけない、したがって、しっかりとした技術が要求されるのだ。
もし、1級の検定をほとんどスピードもでない、緩い斜面で行ったらどうなるだろう、「足をそろえて大回りをゆっくりとしたスピードでやってください」などと条件をつけて。
もうお分かりだろう、合格者など出ないのである。だからこそ、それぞれの級によって種目も斜面も違うのだ。スキーはその状況に応じていろいろな滑り方をする必要があることを良くわかってほしい。それなのに、いつも検定で使われる斜面で同じ滑りを繰り返すあなた、それでは進歩がないではないか?同じ種目でもいろいろな条件で練習する事により、あなたの体がその条件にあった動きを再現してくれるようになる。
スピードの出ない斜面で、スキーをそろえて回る事は難しいから、スキーを開き出しその難しさを補う。
上手い人は、どんなスピードでもどんな斜面でも、それらしく滑ってくるだろう。しかし皆さんは、自ら難しくしてしまう必要はない。その種目に適したスピード(自分の中で)をつかもう。大回りや総合では、ゆっくり滑るとしっかりした技術が要求される、少しスピードを上げて挑戦しよう。ただし、いつものあなたの感覚を表現すれば良い。検定とはそういうものだ!
検定は決して一発勝負ではない。たまたま上手くいったから合格するなどと言う事はありえない、あなたが積み重ねてきたものが評価される、当然スピードオーバーでバラバラになっては嫌われる。したがって、ひとつひとつ丁寧に滑ろう。
普段は、自分の限界スピードを上げる練習をして、本番では、7,8分の力で滑ろう。そして最大のコツは、難しく考えない事だ!何度も申し上げるが、いつものとおり滑れば良い。その中でもいくつかのコツを書いてみよう。先ほども書いた通り、その滑りに合うスピードを心がける事だ。それと、自分が検定員になったつもりで考えてみよう、今スキーをはの字に開き出して回るとしよう、斜面に対し体が真横を向いてしまうほどスキーを回しこみ開き出すのと、もう少し早く開き出すのでは、どちらが下で見ている検定員にとって、開き出したと言う事実が見えやすいだろう。
高い検定料を払うのだから、あなたの表現する事が見えにくいより見えやすいほうがいいに決まっている。そう、あなたの滑りを見せてやるのだ。
スキー学校、秘密活用法!
スキー学校のレッスンは楽しいほうがいいだろう。しかし、それだけではダメだと思う。我々スキー教師にとって皆さんは大切なお客様だ。満足して帰って頂かなくてはいけない。私は時に「高いお金を払っているのだから、もっと感じやすくなってください、皆さんが自分自身で新しい感覚をつかめないなら、スキー学校に入る意味がない」と強い口調で言ったりした。だってそうだろう、皆さんがスキー学校に入ることで、私達は給料をもらう。
もしも、2時間のレッスンを終え皆さんがなにもつかめなければ、我々に給料などもらう資格はない。スキー教師も必死で教えている、皆さんも必死で何かをつかんでほしい。皆さんの上手くなりたいと言う気持ちと、我々の気持ちが一つになった時、驚くような成果が生まれるのだ。
今練習している事が出来るようになったら、すでに出来る事を復習しよう。必ず今までと違う感覚で出来るはずだ。わからない時はスキー教師に聞けばいい、必ず今のあなたに一番必要な事を提案してくれる。しかし「それでいいです」と言われても、自分が今までと違う感覚でなければ、何度でも聞いてみよう、「2級のレベルならそれでいい」と言うのなら解るが、いつも「それでいい」という教師がいたら、その教師は失格だ。
教えてもらう必要などない、常にあなたに一歩上の感覚を教えてくれる教師を探そう!
22歳になっても悪ガキは悪ガキだ
さて、この年私はとにかく悪い事をしていると楽しかった。例えば、進入禁止区域を滑る事などだ。良く考えてみると、地元の悪がきたちがパトロールの目を盗んで入って行くように、誰でも同じ道を通るのかもしれない。22歳にもなってと思われても仕方ない。
どちらかと言えば、私は悪がきたちを阻止する立場だったが、隊長や校長の目を盗んでは単なる悪ガキになっていた。ヨーイドンといって誰が一番早く転ばずに下まで行くかを競う子供達のように、一緒にやる仲間はいなかったけれど、それをやっていたように思う。そう、スキーとは簡単なものなのだ。
誰が一番速いか!一番早く転ばずに下まで滑り降りた人が一番上手いのだ。コブ斜面でもなんでも、一番先に転ばずに降りた人が一番上手いのだ。
前にも書いたが、私は直滑降を克服した時変わり始めた。今まで出来なかった事が、いともたやすく出来たりした。とにかく少しでも早く滑れるようになろう!必ずあなたの中で何かが、変わるはずだ。
もっと簡単に、もっと単純にスキーをとらえよう。難しく考えるのは、あなたがもっと上手くなってからでいい。
けがしちゃだめだよ
さて、3月になりシーズンも終わりに近づいた頃、スキー学校に入校する人も少なく、スキー学校のメンバーとパトロール十数人で滑っていた。とにかく楽しく滑っていた。チャレンジコースへ皆で行き、飛んだりはねたり全員子供に戻ったようだった。
数名が下で見ている中、最後に隊長が滑ってくる。調子よく途中までくるとスキーがはずれた。転がって止まった隊長は、上から流れてくるスキーに手を伸ばした。このときは、金具の調子が悪かったのかもしれないが、ストッパー(流れ止め)が上手く効かなかったようで、隊長は立ちあがると鼻血を流していた。(下からは鼻血に見えた)しかし、降りてきた隊長は、鼻の下にスキーが当たったらしく唇と鼻の間を切っていた。
本人は「傷口を中からなめると、舌が外へ出る。」と言うのだが、そこまでひどくはない。そのまま楽しいスキーは中止、病院に行き3、4針縫った。今でも酒を飲み、顔が赤くなると、傷口がくっきりと浮かびあがり、あの頃を思い出す。
スキーは100%安全とはいえない。
まして自分のスピードが上がり、難しい斜面に行くほど。金具の調整なども、スキー技術とともに覚えて行こう。こうして、残りの数週間を過ごしスキーシーズンも終わってゆき、4月の上旬には来シーズンを楽しみに大阪へ帰っていった。
スキーヤーは雪がないと辛いね!
1986年12月23歳と8ヶ月、ここへ来て3度目のシーズンが訪れた。しかし、この年は大変寂しい年になった。雪が降らないのである。
12月も25日を過ぎた頃一部で営業していた。
この年、私と隊長と隆義の準指導員受験が決まっていたのだが、雪も少なく思いきり滑る事は出来ない。雪が少ないとパトロールは仕事が多く、一日中走り回る事になる。
そんな中、12月31日の午後、山頂で捻挫したお客さんがいて、リフトに乗せ下まで降りてもらう事にしたが、この人をリフトに乗せた時隊長が足場から落ちてしまった。いつものように雪があれば高さもそれほどなく、たいした事もないが・・・この年は雪が少なすぎた。
お客さんがリフトで降り、私の肩につかまり、やっとの思いでリフトの監視小屋まで登った隊長は、自分の腫れ上がった右足を見て「仁、折れてるかな?」と聞いた。二人ともパトロール、いろいろな怪我を見ている。折れているか折れていないか大体の事は解る。
このとき隊長も私も、折れている事を確信していたと思う。しかし、何処かで否定したくてそのように聞いたのかもしれない。
こんな時怪我人を安心させるため「多分、捻挫だと思いますが、念のため固定しておきますから、レントゲンを撮ってもらってください。」と言う事が多い。このときの私は「ひどい捻挫だと思う」としか言えなかった。すると隊長は「本当にそう思うか、お前の顔には折れてるって書いてある」と言ったのだった。
私は「折れてると思います」と答えたが、悔しくて涙が出そうだった。ここまで何年も練習してきて、いつでも一緒に練習してきて、私にスキーを教えてくれた人が今、シーズンを棒に振ろうとしているのだ。しかも夢にまで見た準指導員受験の大切なシーズンを。
病院での診断結果はやはり骨折で、しっかりと固定され松葉杖をつき帰ってきた隊長も私も無口だったが、私より隊長はもっともっと悔しかったに違いない。2,3日もすると、スキー学校の受付などの仕事をしながら、隊長は私が滑って行くと呼び寄せ、アドバイスしてくれるのだった。私はこのとき準指導員検定に10番以内で合格する事を決心した。
私にスキーを教え、自分は受験すら出来ずに、人の受験を応援するしかない隊長のためにも、必ず上位で合格するのだ。準指導員は成績順にライセンスの番号がつけられる、必ず10番以内で合格するのだ。
年も明け猛練習が始まった・・と言いたいところだが、雪が降らずスキー場は閉鎖同然となり、毎日スコップを持ちゲレンデ内を見て回る日が続いていた。1月も下旬になり雪が降りなんとか落ち着く。夜になると隊長は我慢できずに飲みはじめ、足が痒いといってはギブスをはずすものだから、腫れてしまって入らなくなったりで大笑いした。
それでも雪は少なく練習どころか、スノーボートに雪を乗せてはゲレンデ内の雪の少ないところを埋め続ける毎日だった。関取(隆義)は、せっかく仕事が休みの日に練習にきても、スコップばかりで練習できない。しかし、文句を言っても始まらない、いまの状況の中で練習をするしかないのだから。急斜面はほとんど滑れないので、暇があると緩斜面に行きプルークボーゲンなどの練習をしていた。
勇平さん(もちろん指導員)は、やはり若い頃、選手権で県代表になった事があり、いつでも私達の滑りを「いい感じだ」と言って誉めてくれた。
こんな時だからこそ、満足に練習できない時だからこそ、余計に自信につながる。大丈夫、勇平さんが上手いと言ってくれるのだから、そんな気にさせられた。
この時、私と関取が準指導員、布施さん(かなり訛る)が指導員検定を控えていた。
異国のスキー
この頃受験を控えた私と布施さんは、Iスキー学校へ修学旅行の手伝いに行く事になった。
初日は到着後ミーティングを終え、10時からレッスンが開始された。
レッスン終了後、ここで働くオーストリアの教師による研修があるので参加してくださいということで、我々は参加した。他校からも多くの人が手伝いに来ていたが参加しなかったようで、スッタフのAさんの通訳で始められる。
オーストリアの教師は「上下動を使って」と言うのだが、その滑りを見ていた私には上下動とは思えなかった。みんな曲げたり伸ばしたりしながら滑っていくのだが、私は自分の見た通り、感じた通りに滑っていった。この時「GOOD,GOOD」と誉められたのを覚えている。
彼は上下動と表現していたのだが、私にはそう見えず、上下動と言うより、上体と斜面の角度をまったく変えずに滑っているように見えた。
これが上下動をとらえた時の自分の感覚だった。皆さんも自分の感覚を大切にしてほしい。
スキーを言葉や解説の通り理解しようとしても、絶対に上手く行かない。それぞれとらえ方は違って当たり前なのだから、自分の感覚を信じるしかないではないか。
スキー教師の言うことを自分の感覚に置き換えて、理解してほしい。だってそうだろう、人間は自分で理解できない事を、表現する事も人に伝える事も出来るはずがない。今はまだ上手く滑れなくても、まったく気にする必要などない。あなたが、あなた自身の感覚で理解し練習を続ければ、必ず上手く出来るようになる。
養成講習会
2月上旬、準指導員養成講習会に参加した。これは準指導員検定受験者を対象に合宿で鍛え上げる事を目的に行われる。昼は実技、夜は学科と言うように、3日間カン詰めでスキーのこと以外は考えられない状態が続く。この時初めて、私は外の世界を知るのだ。例えば他のスキー学校の連中と話したり、デモンストレーターを見たりするのだ。その上、我々の指導に当たるのは現役のデモや元デモだったりするから感動する。受験生達はここで、その滑りを目に焼き付けることになる。
さて講習の内容と言えば、種目の練習もするのだが、急斜面ではとにかくしごかれる「それじゃ、下で見てるからウェーデルンで滑ってきて」と言った講師は、受験生がそろそろ止まるだろうと予測している地点を通りすぎても、止まる気配もなく「おいおい、冗談だろう」などと言っている間に見えなくなってしまう。仕方ないので、受験生達は順番に降りて行くのだが・・・。500mも600mも下で立っていて、我々がゼエゼエ言ってると「このくらいでバテるの?」などと言って、すぐに滑り出すのだ。
こんな調子で午前午後としごかれた後は、学科の模擬試験が待っているのだった。合宿が終わると検定で再開する事を約束して、それぞれのスキー学校へ目を輝かせながら帰って行くのだ。
積み重ねたものが少ない!
そして2月も中旬になり再びスキー場の営業は一部になってしまう。我々は雪のある所へ行っては、数回転する練習を続けていた。そして、そんな練習すら出来なくなり、合宿に行こうと言う事になった。小林隊長の知人の別荘が湯沢にあり、タダで使わせてくれる事になったのだが、残念ながら関取は仕事で参加できなかった。
隊長もそろそろ滑れるようになっていて、土曜日の夜到着した我々が食事の準備を始めるとガスが切れてしまった。頼れるのは電子レンジだけだ。これで5人分のラーメンと卵焼き?を作る、あとはビールがあるので十分だった。
翌日、勇んでゲレンデへ出ると、日曜日と言う事もありリフトは待たされるし、人が多く本気で滑る事も出来ず、緩斜面で練習することになる。
この日、およそ誉めた事のない校長が「いいじゃないか」と言っていた。
もはや、練習不足をどうする事も出来ない、自信を持って受験するしかないのだ。普段積み重ねたものが滑りに現れる。しかし、その積み重ねが少ない、少なければ別のところから持ってこなければいけない。とにかく自信を持つしかない。
準指導員検定始まる
そして3月1日、私と関取は校長の車で検定会場の新赤倉スキー場へ向かった。校長は検定員なので、帰りは3人で帰れるよう自分の車を置いて、先に出発していた。
「もしも、どちらかが落ちたら、同じ車で帰るのは辛いな」などと言いながら、走っていったのを今でも覚えている。
前日に着いた私達は、雪のたくさんあるゲレンデを滑っていた。滑れることが楽しくて、細かいことを考える余裕などない。夕方、本部で受付を済ますと面接を終えて宿へ戻り、軽くビールなどを飲みながら夕食を終え、我々はスキー教程を読みながら眠りに入っていった。
眠りから覚めると、いよいよ実技の検定が始まる。朝9時からゼッケンの順に決められた種目へと向かう。この頃の準指導員検定は実技が10種目、学科と面接だった。実践種目として、パラレルターン、ウェーデルン、総合滑降、ステップターン、制限滑降。指導種目として、プルークボーゲン(踏み出し形、乗り移り形)シュテムターン(山開き、谷開き)小回りターンの展開となっていた。
さて検定に入ると、やはり大変緊張したが、今でも覚えている種目について書いておこう。制限滑降は基準タイムの120%以内が合格、しかし、この基準タイムと言うのは、現役のデモが目の前を本気で滑って行くから不安になる。それでも基準タイムが20秒なら24秒以内でいいのだから、まず大きな失敗がなければ大丈夫だ。
総合滑降はスタート地点から緩い斜面が続き、50mほど先にポールが2本立ててあった。この間を通ると急斜面になり、また斜度が落ちる。スタート地点からは、斜面がどうなっているのかわからないのだが・・・。私はとにかく飛ばして行こうと思い、小回りなどしないで3回転で降りて行く事にした。あとは何も考えない、急斜面の中ほどから回転をはじめ、3回転目に入ったところでゴールに達した・・・計算どおり、自信の持てる滑りが出来た。
ウェーデルンは、300人近くが滑るため塩を撒いて固められてはいたが、私の時にはだいぶ荒れていたと思う。とにかく確実に滑る事だけを考え、ひとつひとつ丁寧に滑り降りていった。パラレルターンはいつものとおり、何も考えずゴールを目指した。プルークボーゲンでは校長が検定員で、「ガチガチのロボットみたいだった」と終わってから言われてしまった。こんな調子で2日間、全種目が終了したのだった。そして学科試験を終えると、宿へ戻り関取と乾杯した。
しかし発表の朝、大変な事が起こってしまう。
朝食をとりコーヒーを飲みながら雑談する我々の間に、一枚の大きな花びらがヒラヒラと落ちてきた。二人は顔を見合わせると本当に不安な気持ちになり、どちらからともなく「ダメかもしれない」などと言い、落ち込んだ気持ちのまま合格発表会場に向かうのだった。
準指導員
準指導員検定は成績順で発表される。10番以内が目標だった私は、聞き逃す事のないように数えた。しかし10番までに名前が呼ばれる事はなかった。それなら20番以内と思ったがダメ。やっと33番目に呼ばれた。少し遅れて関取も呼ばれ、顔を見合わせホッとしたのだった。
あの花びらは幸運の印だったようだ。
手続きを終え会場を出ると、我々は晴れて準指導員になっていた。宿へ帰り荷物を積み込むと、本部まで校長を迎えに行き3人で高速に乗る。この日の校長は、車に乗るとバカな事ばかり言っていたように思う。
胎内に戻ると皆が出迎えてくれる。
「すみません、33番でした。」と言った私に、「バカヤロー」と言った隊長が本当に嬉しそうな顔をしていた。検定前には、「10番以内で取れなかったら、飯おごります」などと言っていた私だが、先生方はその事には誰一人触れずに、皆本当に嬉しそうだった。
布施さんも無事に指導員に合格し、合格祝いが始まる。パークホテルの宴会場には、30名位集まっただろうか、大変な騒ぎになった事は言うまでもないだろう。
酒をついで回る私に誰もが、「あの仁が準指導員ねぇ・・・」と2年前の姿を思い出しながら返杯してくれるのだった。そして最後は、例のごとく来年受験する小林隊長への大プレッシャー大会へと変わって行くのだ。この時私と関取は、初めてプレッシャーをかけるほうになり喜んでおり、「小林さん、準指導員は難しいよ」と言う私達に、隊長は「お前がプレッシャーかけるとは100年早いわ」と言いながら嬉しそうな顔をした。
こうして、隊長はケガのため受験できなかったのだが、胎内スキー場に来て3シーズン目、私は準指導員に合格した。
3月下旬になると、皆シーズンの疲れが出て来て、のんびり過ごすようになる。私はと言うと難しい事は考えず、毎日飛んだりはねたりして滑っていたように思う。胎内スキー学校では1級がスキー学校で教える事は少なく、皆パトロールから始め準指導員を取って初めてスキー教師としてデビューして行く。
組織的には校長が総責任者で同じだが、スキー学校とパトロールにはそれぞれ別の部屋があり、それまでの私はスキー学校でコーヒーを飲んで休むなどと言えば、恐れ多い感じがしたが、この頃には平気になった。この辺のところは、はっきりしていて関取は合格してからスキー学校のスタッフとなった。
私は、そのままパトロールを続けていた。確かにパトロールは、雨の日も雪の日も、外に出ているのが仕事で辛い時もあるが、正直なところ私はパトロールのほうが好きだった。トランシーバーでいつでも呼び出されてしまうけれど、仕事がなければゲレンデの巡回が一番大切なのだから。巡回中に悪いところがあれば直すのが仕事で、朝一番にはすべてのゲレンデを滑らなければいけない。私なんかは、リフトが動き出すと首輪を取ってもらった犬のようだ。走り続けて行方不明、自分の家もわからなくなってしまう。
朝一番、ひととおり見て回ると一人で直せるところは直し、応援が必要な時は連絡を入れると手伝いに来てくれる。何もなければ、ただ滑りまくるのだ。この時期になれば、お客さんも少なくゲレンデもリフトも自分の物のようで、滑りまくって疲れたら、スキー学校に戻って休めばいい。
10時頃になると皆が出てくる。レッスンのない先生方が集まって滑っていると合流して滑る事もあったが、難しい事をしている時は離れて行く。天気のいい日は順番で滑ったりすると待たなければいけないので、つまらない。それよりも私は、スピードを出して風を切って滑るのが好きだった。と言っても楽しく滑っているだけではない、「もっと小さくなってみよう」とか「もう少し後ろに乗ってみよう」とか、いつも考えながら何本も何本も滑るのだ。この頃には隊長も結構回復していて、二人で滑っていた。クタクタになって「ゼエゼエ」言いながら滑り続けるのだ。
考えてみれば、ヒョンなことからここへ来てしまったが、隊長も同じだった。彼は「山小屋を建てて、山で暮らす」と言い、新潟、山形の県境である飯豊連峰に登り始めた。お父さんの実家が新潟と言う事もあり、まったく知らないわけではなかったが、黒川村役場が管理する山小屋で校長達と知り合う。
例の調子で「小林君は冬場仕事ないだろう、スキー出来るか?」などと校長に言われスキー場で働く事になったらしい。
それ以前は志賀高原でアルバイトしていたので、まったく滑れないわけではなかったが、よく校長は酒を飲んでいる時に「亮もひどかったけど、仁なんかあれほどとは思わなかった」などと言っていたから、隊長もひどかったのだろう。
今では、ひどいのと、もっとひどいのがパトロールとして飛びまわっている、いったいどんなスキー場だろう。
ケガをした人を背負って滑ったり、スノーボートにケガした人をのせて、急斜面を下ろしてくることも出来るほど上手くなった。ひょっとすると胎内スキー学校の面々はスキーを教える天才かもしれない。
そして一時細くなった隊長の足も、徐々にもとの太さになり始めた頃、スキー場は閉鎖される。今シーズンも仕事を終え、我々は胎内スキー場を後にするのだった。
隊長はこの年滑り足りなかったのだろう、「栂池で滑って行こう」と言う事になり、隊長の友人の働くロッジへ向かった。もう4月上旬、雪も良くないけれど、我々にとっては軽い雪だ。やはり、首輪を取ってもらった犬のように滑った。
3年前初めて滑ったスキー場だが、何もかもあの時とは違い簡単に滑れる。ズルズルと尻で降りた馬の背コースでさえ最高の斜面だ。コブ斜面や急斜面では、降り口で多くの人がためらっていて、そこを滑ると皆に注目される。これが楽しいのだ。
そう、あなたは自分の感覚を高め、練習する事によって変わって行く。確実に上手くなっている。そして、あなたが変われば斜面も変わるのだ。いままで怖くて滑れなかった斜面が、急斜面でなくなる。
上手い人を見て指をくわえていたあなたが滑り始めると、周りの人が指をくわえて見てくれるようになる。
確かに難しい事もたくさんあるかもしれない。しかし、自分の感覚をしっかり掴み、練習を続ければ必ず滑れるようになる。いつも楽しみながら練習を続けよう。
こうして私にとっての3シーズン目は終わり、来シーズンからは、指導員を目指しての練習が始まるのだった。
第4章 指導員とは
指導員はスキー界の先達として、その普及、発展に努めなければならない。
これは日本スキー教程指導員規程の初めに書かれている文だが、何をもって、自覚と誇りなのか。それは、自分がこれだけ練習してきた!と言う部分が誇り、そして、多くの先輩達に鍛えられたことが、生徒さんや後輩に伝えていかなければならない、と言う自覚に繋がると私は思っている。本当のところは、スキーの教師と言う事で、恥ずかしい行為のないようにと言う意味でかかれているのかもしれないが、それはそれでいい。私がどのように理解しているのかと言う事だ。スキー教師達は、心からスキーを愛している、皆さんにスキーを愛してほしいと思っている。だから皆さんも、上手くなりたいという思いをストレートにぶつけてほしい。
あなたのわからないことは、なんでも聞いて良い。スキー学校に入った時、教師と1対1などということは少ないと思うし、まったく知らない人と一緒になり自分から言葉を発することも大変だと思う。しかし、全員の上手くなりたいと言う気持ちは同じだと思う。スキー教師は皆さんが分かりやすいように、質問しやすいように雰囲気も大切にしている。しかも、高いお金を払っているのだから利用できるだけ利用しなければ損だ。
2時間のレッスンが終わってからでもいいだろう、とにかく解らない事があれば聞いてみよう。いつもではないが、レッスン中のノリがよくスキー教師もハイな気分の時がある。こんな時は我々だって、もっとスキーの話しをしていたいし、もっと教えていたい、多少の時間外労働だってできるのだ。普通の会社で言うところの残業と言うものか?
教師達はいつも良い雰囲気で聞いてもらえるように考えている。みなさんもスキー教師がハイな気分で教えられるように、考えてみると面白いだろう。きっと時間も忘れ必死になって、皆さんに何かを掴んでもらおうとするはずだ。
また、シーズンが始まった
1987年12月(24歳と8ヶ月)スキー場ですごすのも4シーズン目となったのだが、今までで一番悲惨な年だった。とにかく雪が降らないのだ。スキー場がオープンしなければ、日曜日と言ってもお客さんはいないし、非常勤の先生方も山に上がってこないから、寂しい日が続く。
この年、隊長と春ちゃんが準指導員検定を控えていた。指導員は準指導員合格の年を含め2年間受験できないから、私と関取の受験は来シーズンということになる。12月20日過ぎにスキー場に入った私と隊長は、やはり穴を掘ったりしていた。
そんな事をしていると、役場の今井課長からジュニアレーシングチームの引率を頼まれる。胎内スキー場でも将来の大器のためにレーシングチームがあり日々練習をしている。子供達はすでに冬休み。
本来なら毎日スキーを履いているはずで、スキー場で合宿の予定だったが、雪がなければスキー場ではない、そこで月山まで合宿に行く事になったのだ。私と隊長はスキーも出来るし、仕事もないし喜んで引き受けた。責任者は今井課長、コーチは勇平さん(もちろん指導員)小学校から中学校までの子供達30名ほどがバスに乗り、我々は子供達のスキーを積んだトラックに乗り出発する。
スキー場ではリフトで一緒になることもあるし、子供達がポール練習していると我々も入って行ったりしていたから、皆顔は知っている。特に育チャン(校長の娘さん)などは、いつも家で酒を飲んで酔っ払っている我々が引率だから複雑な思いだったかもしれない。
そうこうしているうちに合宿も始まり、この間何人もの子供に「仁さんスキー上手くなったね」と言って誉められてしまい、相手は子供でも嬉しくなったものだ。もちろん彼らは、3年前の私の姿も知っているから誉めてくれるのだろう。その人が教えたりするのだからビックリといった表情だった。そして、子供達は突然雪のある寒いところへ来たものだから、何人もが熱を出し、私はスキー場から、具合の悪くなった子をおぶって宿まで連れて行く係。隊長は、まるでせんべいを焼くように、次から次へ、頭を冷やしているタオルをひっくり返していた。
合宿も無事に終わりスキー場に戻った我々は、遊園地の動物を入れるオリの溶接、パークホテルのラウンジでギターの弾き語り、大晦日にはグランドホテルでラーメンを作ったりと、いろいろな事をして過ごす。パトロールは何でも出来なければいけない。
スキー場は温室だ
実はこの年、夏も少し滑っていた。
当時は4月下旬から11月まで北アルプスの北穂高小屋という所で働いていて、登山をする人ならご存知かもしれないが、標高3100mの高さに山小屋があり、宿泊する登山者の食事を作ったり、掃除をしたりして夏場を過ごしていた。有名な上高地から徒歩15時間と言ったところだろうか。
当然、標高が高いので7月頃までは滑れる。ただしスキー場ではないので、リフトはないし、雪崩はしょっちゅう、斜度もとんでもないのであまりお勧めできない。北穂高小屋から2,3時間下った所に涸沢というところがあり、ここでは7月に競技スキーをする人達がキャンプすることもある。ただ6月までは、登山経験のない人が入ってくるのは難しく、5月の連休前は山小屋の従業員が上ってくるぐらいでほとんど登山者もいない。4月まではかなりの経験がなければ難しくスキーどころではない。
我々は4月の20日過ぎに山に上がると、雪に埋まった小屋を来る日も来る日も掘り出すのだった。スキーや靴はヘリコプターで荷揚げする時便乗させていただく。6月に入ると涸沢で山小屋従業員親睦スキー大会が毎年開かれていた。上高地の旅館や山小屋で働くスキー好きな人達が、スキーを担いでやってくるのだ。私は上の小屋にいるから、帰りは担いで上らなければならないがスキーで滑って行く。
北穂沢は小屋の周りで一番滑りやすい斜面だが、その斜度と長さには舌を巻いてしまう、スキー場の上級者コースなどとは比べようがない。本当のことを言うと、初めの5−600mは怖くてまともに滑る事が出来なかったのだ。この時私は準指導員である。少し斜度が緩くなってからは上手く行ったのだけれど、登るとき斜面につま先を蹴りこめば膝が着くぐらいの斜度だから、怖いなんて物じゃないし、転んだら大変、命がけだ。
こんな時は「何が準指導員だ。まともに滑れないじゃないか。」と言う気分で、自分が下手な事を痛感する。
さて、夕方に集まった人達はスキーをしたり、酒を飲んだりしてゆっくり過ごすのだが、夜は大変、ほとんど全員が吐くまで飲む。日頃、下界の賑やかな世界から離れているだけあって、すさまじい騒ぎになる。翌日は皆二日酔いでスキー大会になる。何人かの仲間は、冬場本気でスキーをしているから、結構白熱する。ポールをセットして一本タイムを取り、優勝は申告制で申告タイムと2本目のタイムが近い人だ。そして本気で練習している人達が熱くなるのが、ラップ賞で2本目のタイムが早い人の勝ち、賞品も用意されている。この年の優勝争いは、私と八方スキー学校でアシスタントをしている瀬川(1級)の二人に絞られていた。
一本目を終えるとビールが渡される、これを飲まなければいけない。私の次に滑ってきた瀬川は私の申告タイムを確認して、同じタイムを申告する。ポールは20数本立てられている。二日酔いと登り始める前に飲んだビールでヘロヘロではあるが息を整え2本目を滑る。
後で書くことにするが、皆さんも感じているかもしれない。
私の働く小屋でも支配人は八方でスキーを教えていて(SAJのスキー学校ではない)、よく「胎内なんて聞いた事もない、やっぱり八方の1級だよ」などと言われていた。周りの人達も八方や栂池といった同じ長野県で働く人が多いので、私のスタートの時は皆がスタート地点で見ていた。この年の3月に準指導員に合格していたから、支配人や瀬川のように知っている人はもう「胎内なんて・・・」とは言わなかったが、知らない人にはまだ「八方の1級だったら落ちるよ」などと言われる事もあった。
このような人を相手にしても仕方がないし、私はC級検定員にも合格していたから「八方で俺が受けて、落ちたら洒落にならないよ」などと言って軽く受け流していた。いくら競技スキーの経験がないと言っても準指導員だ。そう簡単に負ける訳にはいかない。ゴールした私のタイムは、すぐにトランシーバーでスタートに知らされ、瀬川がスタートする。結局、申告タイムより0.2秒早く滑った私が優勝とラップ賞の完全優勝を果たしたのだった。決して高いレベルではないが、同じぐらいの仲間が本気でタイムを競っているから面白いのだ。
次の年は、瀬川が準指導員受験の年だったと思う。私の小屋の支配人は、若い頃競技スキーをしていて、ナショナルチームの選手などの名前も出てくるし現役のデモなども知っていて、かなり上手いのだ。
彼は今まで親睦スキー大会に参加しても優勝して当たり前だから出なかったのだが、この年準指導員と準指導員受験者を相手に参加することになり、私も瀬川もなみなみならぬ闘志を燃やした。さらに瀬川は私に対するリベンジだから大変だ。とはいえ前日は大騒ぎになる事に変わりはない。北穂の支配人のスキーの上手さは知られていたし、前年の私と瀬川の戦いなども噂になり、参加者もだいぶ増えてきたようだった。
例のごとく夜は大騒ぎで、二日酔いのメンバー達は次々にタイムを申告していく。結局、支配人、瀬川、私の3人が同じタイムを申告して、ラップ賞と優勝の可能性を残して始まったのだった。結果は瀬川が申告タイムより1秒早く滑りラップ賞、私が0.8秒早く滑り優勝、支配人はコースアウトして記録なしだった。
この年の5月下旬だったと思う。
私は北穂の北壁に挑戦して、危うく命を落とすところだった。
夕方、仕事も終わり少しだけと思いスキーを着けたが、この日は朝から冷えていて、雪が硬すぎたのだ。5月と言ってもマイナス15度などと言う日もあるぐらいだ。軽く考えていた私は斜面に飛びこんだ。ところがエッジはまったくかからず、そのままの姿勢で何も出来ないまま200m程落ちていっただけだった。
転んだらおしまい、2kmほどたたき落ちて死んでしまう。必死でエッジをかけようと、体を起こす事ばかり考えていた。何とか態勢を立て直し斜滑降で東稜(涸沢から続く尾根)の方へ滑っていくと、小屋までは1時間ぐらいかかって上っていった。
なにが準指導員だ、まったく歯が立たないではないか「下手だなー」と思いながら、寂しい気分のまま小屋についた。小屋の周りは大変危険なので、上司はスキーをするといい顔をしない。何を言われるかわからないので、「あー怖かった」以外は何も言わなかった。
数年後、除雪作業をしていた仲間がここから落ちて、全治6ヶ月の重症を負った。いくら若かったとはいえ無謀な事をしたものだ。皆さんはこんなところを滑る事はないと思うが、スキー場でも同じで、スキーはまったく安全なスポーツとも言えないので注意しよう。
私は決して冒険スキーヤーでもないし、たまたま自分のいた環境がこんなところだったから滑ってみただけだ。しかし、これに比べたら、スキー場とは、どれほど安全な所だろう、温室育ちなどとよく言われるが、まったくその通りだ。1級やテクニカルはたまた指導員の資格を持つ人達はスキーが上手いのか?といえば確かに上手いのだろうが、どんな斜面でも転ばずに降りられるかといえば、そうとも言えない。
世界中を見渡せば、エベレストだって滑る人がいる。どんなにゲレンデで練習しても出来ない事はたくさんあるのだから、このことばかりに目を奪われてはいけない。目標として1級を目指す事はいいが、総合的に力をつける意味でも、いつもいろいろな所を滑ろう。いろいろなゲレンデに挑戦しよう。
すぐには、わからない事も多いよ
さて、1月も中旬になり、やっとスキー場がオープンした。ゲレンデの巡回などで平日は特に隊長と行動を共にする場合が多く、真剣な顔で「教えてくれ」などと言われるものだから、やりにくかった。どちらかと言えば隊長は、ズングリしているし、私は線が細い、滑っていても同じ感覚であろうはずがない。大袈裟に表現すると、隊長が急斜面を滑ってくるとゲレンデが壊れそうな感じで、とにかくパワーがあるからいつでも全力で滑っているように見える。
当然の事だが準指導員合格のレベルには十分達していたと思う。しかし、どんなに心臓に毛が生えているような人でも受験を控えて不安なことも多く、「仁、見てくれ」などと言って滑ってくるのだった。私がいくら「いいじゃないですか」と言ってもなかなか納得はしてくれなかった。なにしろ哲学科を出ている学士様だから頑固なのだ。同時に私自身の感覚も伝えたのだが、一人一人違って当然、この時は理解してもらえなかったようだ。
それから5年ほど後だったと思う。胎内スキー場で指導員研修会があり、すでに引退していた私達は、大阪と長野から出かけていった。夜はとにかく大騒ぎで、まるで全員昔に戻ったようだった。あまりに楽しく、あまりに懐かしくて私と隊長は研修会終了後、もう一泊して滑って行く事にした。 この時、パトロール隊員達は我々が現役の頃、中学生や高校生だった連中で、我々はすぐに悪い事をしに行った。進入禁止区域に行ってはロープをくぐり、
小林「仁、こんな所へ入ったらパトロールに怒られるかな」
仁 「まさかあいつらが、我々に文句言えないでしょう」などと言っては昔に戻って、すっかりいい年こいた悪ガキになってしまう。こうなると、どうしてもリフトの下を滑りたい。顔見知りのリフト係りを見つけては、降り場でお客さんの乗ったリフトの番号を聞き、見られない事を確認するとシュプールをつけまくるのだ。
久しぶりに我々がスキーに来たので、スキー学校の面々やパトロール達も一緒に滑ろうとして追いかけてくる。しかし我々の行く先々でリフトの父ちゃん達も「今○○リフトに○○先生が乗ったよ」とか「○○リフトにパトロールが乗ったよ」と教えてくれるから、次に向かってくるところを予想し移動しては悪い事をするのだった。
当然、敵もリフト乗り場では「小林さんと仁さん乗りました?」などと情報を集めるが、こちらもスキー場を知り尽くしているから、そう簡単に見つかる事はない。
結局、お昼に下へ下りて行くと「○○リフトの下滑ったでしょう」とか「○○は滑ってはいけないんですよ」とパトロールに叱られるのだが、「バカ、そんな所滑るわけがないだろう、危ないじゃないか」と言う我々の言葉に、スキー学校のメンバー全員が大笑いするのだった。長い付き合いである、みんな我々のやる事は知り尽くしている。午後になると役場の若い衆が1級を受けるので教わりに来た。先生方はレッスンがあるため我々が教える事になる。
この時私はレッスン1に書いた事を教えたのだが、一緒に聞いていた小林さんは「わかりやすい、簡単だなあ」と言っていた。あの時、小林さんが受験の年にも同じ事を話したのだが、その時はわかってもらえなかった。
確かに1級とか2級とか資格が上達させてくれるという面もあるが、それよりもあなたの感覚がその自信と共に確実にアップした事に他ならない。すぐにわからない感覚も多いとは思うが、決してあせることはない。必ずあなたの感覚アップと共に理解出来る時がやってくる。
とにかく目と耳に焼き付けろ
さて、この年からパトロールに新人が入ってきた。私にも後輩ができたのだ。高校を卒業し、役場に就職した若者達で守(1級)、利勝、和弘(1級)の3人だ。
黒川村ではスキー場の他、ホテルやクアハウスなど、とにかくいろいろな事業を展開している。公務員とはいえ、何処に配属されるかはわからない。スキー場は観光課が主体で、関取などは夏場ホテルで働き12月になるとスキー場へやってくるのだ。
そんな中3人の若者は将来を期待されつつ、非常勤でスキー場へ来るようになった。本来の仕事が休みの日やナイターで練習して、資格を取って行くのだ。守と和弘は1級を持っていたが利勝は何もなかった。この他にも、子供の頃から競技スキーで活躍してきた大学生、敏夫(1級)和弘(2級)兄弟、そして之寛(2級)の内、之寛がパトロールをすることになり一気に賑やかになった。みんな中学生くらいで1級や2級に合格していた。
後に之寛を除いた5人は皆、指導員や準指導員になる。中でも、敏夫と和弘の兄弟は、デモンストレーターを目指し選手権にも出場するようになった。敏夫は技術選の本選に何度も進んだし、和弘はデモ選まで進んだ。惜しくもデモにはなれなかったのだが、大阪でスキー雑誌を見てはハラハラしていたのを覚えている。当時は3人ともスキー部で、特に之寛はジャンプの選手に転向していたから、いろいろと笑わせてくれた。
胎内スキー学校では、基本的に、準指導員に合格するまでパトロールとして練習していく。スキー技術はもちろん救急法は、現役の消防士で準指導員の榎本さん錦織さん達が講習する事になる。普段は隊長や私が若い隊員たちに、日常の仕事とともに教えていくのだった。
この時準指導員の私は校長から「若い衆が準指導員を取るまでは全部お前の責任だ」と言われていたので、彼らが来るといつでも引っ張りまわしスキーを教えていくのだった。
同時に自分の上達のため敏夫達が来ると一緒に滑っていた。もちろん私なんかよりスキーはずっと上手く、準指導員といっても彼らに教える事などない。あるとすれば私の人間の大きさを教える事くらいだろうか。
これは冗談だが「教えてくれ」と言っても彼らもうまく教えることはできないから、その感覚を聞き後ろからついて行く事が多い。
この頃は平日はパトロール土日はスキー教師という生活で、レッスンが終わるとすぐパトロールのヤッケに着替え若い連中と滑る。ナイターになり先生方が研修を始めると若者達を預け、敏夫たちと滑るのが日課だった。
20歳で初めてスキーを覚え競技経験のない私が、彼らから吸収する事はたくさんあった。彼らをスキー学校で見つけると「早く行くぞ」と言っては、無理やり着替えさせゲレンデへ連れ出すのだった。4人でリズムを合わせて滑ったりしながら、そのエッジの使い方や体の使い方を、自分の目と耳に焼き付けて練習するようにしていた。そのお返しには酒の席での宴会芸などを教え、「早く指導員取ってデモになれ」と言ってははっぱをかけるのだった。
誰だって同じ道を通るよ
利勝を見ていると、何を言われても「はい」と答え練習を続ける姿が、まるでここへ来た頃の自分を他の人になって見ているようだった。
役場が休みの日やナイターにやってきては練習していた。彼等は仕事を終えると食事もとらずにスキー場へやってくる。私自身は5時30分頃最終パトロールを終えると、夕食を取り6時にはゲレンデに出ていた。たまには疲れて休みたい事もある。
ナイターでは怪我人も少なく詰め所に待機していても問題は少ない、昼のようにスキー場全体ではなく、一部のゲレンデのみだから直行するにしても時間はかからない。それでも自分の中で何かを決めていたかったのだろう、人間疲れたり思うように上達しないと、つい嫌になってサボってしまうから。
彼等はゲレンデに出ると一人で練習している私をみつけ、練習が始まる。
しかし私自身が、自分の感覚を一番大切にしてスキーを覚えてきたので、あまりカッコの事は言わず、とにかく時間がかからないように、自分が苦労した点について教えていった。
利勝は小回りを覚えた頃、私の教え方が悪かったのかもしれないが、一回一回ターンのたびにピョコン、ピョコンとお辞儀をする癖が治らないので、背中に棒を入れてやった。それでも複雑な表情で「有難うございます」と言って滑って行くのだった。
今、私にスキークラブの会費などを請求するのは彼の仕事で、請求書に添えてある手紙は、師匠様から始まり、胎内スキークラブ事務局、SAJ準指導員 佐藤 利勝で終わるのである。
背中に棒を入れられたりしながら、その感覚を体に覚えこませ自分の物にする事によって、必ずインストラクターになれるのだ。
守は何を言ってもわからないと言うような顔をしていた。いつだったか校長に「言ってる事わかるか」と聞かれ「さっぱりわかりません」と答え、ただ真似して滑っていくだけだった自分を思い出した。まだ自分の感覚が技術に追いつかないのだから解らなくて当たり前、上手くなれば必ず解るようになる。
私はとにかく大袈裟にやって見せ、真似する彼に「俺のすべりは、そんなに動いてないか?」と聞くと「たくさん動いてました」と答える。「マモは全然動いてないよ」と言っては何度も同じ事を続ける。性格的にもノンビリしていた彼もコツコツ練習をして今では立派な指導員である。
増子 和弘は私が指導員受験の年に準指導員を受験したが不合格になってしまった。その年は雪が少なく、ナイターの営業が出来ず練習もままならない年だった。仕事を終え、スキー学校の鍵を閉め部屋でビールを飲んでいると、8時頃だと思う、
和弘「おばんになりました(こんばんわ)」
仁 「どうした」
和弘「スキー学校の鍵貸してください」
仁 「何か忘れ物か」
和弘「いえ、練習しようと思って」
仁 「よし、見てやる」
こうして彼と私の車を二台並べ、そのライトでゲレンデを照らす中スキーを担いでは、ほんの50m程の距離を何度も何度も滑ってくるのだった。一時間ほどアドバイスしていた私が部屋に戻ってから、どのくらいの時間がたっただろう、鍵を返しに来る彼にビールを注ぎながら
仁 「練習できなくて大変だけど、必ずお前は合格するよ」
和弘「大丈夫ですよね」
仁 「当たり前だ、俺が検定員だったら120点出してやる」
こんな調子で来る日も来る日も励ますのだった。残念ながら最初の受験では不合格だったが、こんなスキー教師が誕生しないはずがない・・・二度目の受験で彼は準指導員になった。
之寛は1級や指導員には、まったく興味がないようだった。
もちろん子供の頃から競技スキーを続けていたし、早く滑る事しか考えていなかったのだ。私は自分の理解の仕方を話し続けた、スキーは速く滑ったほうが上手い、ならば検定だって速いいほうが高得点が出て当然な事を。今の之寛は1級に合格する事は間違いない。しかし、私の360点は超えられないと何度も言ったのだった。
こうして彼が1級や指導員に興味を持てば、敏夫や和弘と共に、いつか胎内スキー学校からデモンストレーターが誕生するのではないかなどと思い、この世界に引っ張り込んでやろうと思っていたのだ。結局彼は1級を受験する事になり、私の思う壺にはまってしまったわけだ。
「仁さんには絶対に負けません」と何度も言いながら、検定に向かっていった。日曜日という事で私は彼の滑りを見る事は出来なかったが、もちろん合格した。しかし359点、わずかに1点足りなかったのだ。落ち込む彼に「これが検定だ」と何度も言ったのだった。
数日後「仁さんどうしたら、もっと点が出るのですか」と聞いてきた。私は内心、しめしめと言ったところだった。「之寛、でもタイムでないと納得いかないだろう」と聞くと「やっぱり点数の高い方が上手いのかもしれません、基礎スキーはそういうものでしょう。なんとなく解るようになってきました。少しは大人になったんですかね」と答えたのだった。
こうしてまた一人スキー学校の餌食になって行くのだ。結局彼はその先には進まなかったのだが、この時は本気になっていたと思う。そして、和弘も1級を受験したが、やはり物が違った。366点、私の360点は、あっさり更新される。彼等はステップターンなどと言って練習しない。我々が2,3度滑って見せてやると、はるかに高い次元で真似してしまうし、もともと持っているポテンシャルが違うのだ。
これからバッジテストを受験しようとする皆さんに言いたい。あなたが積み重ねたものが滑りに現れる、上手ければ細かいことを考えなくても必ず合格する。しかし、点数で合否が決まるのだから、出された点数は素直に受け止めなければいけない。あの時失敗したから、合格点が出なかったなどと考えてはいけない。たかがワンターンの失敗で、不合格になどなるはずがないのだ。
点数が足りないのは、すべてにおいて足りないという事を良く理解してほしい。この事さえ理解して、自分の感覚を磨いて行けば、それほど難しいものではない。もっと簡単に、もっと気楽に考えてほしい。
この本の中で何度も書いてきたが、皆さんはあまりにも種目にこだわり過ぎて、そればかり練習していないだろうか?スキーはもっと簡単なのだ。どのような状況でも安全に、少しでも速く滑れるように練習すればよい。そしてスキー教師達はいつでも、今のあなたに一番必要な事をアドバイスしてくれるから、それを信じてひとつひとつ体に覚えこませて行くだけだ。
きちんと練習していれば必ず合格するよ!
さて、この年、春ちゃん(春彦)と隊長が準指導員を受験する。春ちゃんは指導員などに興味がないという感じだったのだが、いつのまにか同じ年の私が準指導員を取ってしまった事でやる気になったようだった。酒を飲むと
春彦「仁なんか全然滑れなかったのに、準指導員だもんな」
仁 「春ちゃんも受けな」
こんな会話が続いていた。
彼はスキー学校の修理屋さんで、電気関係に詳しく何か壊れた時の担当者で、とにかくカッコの事を気にしなければ、ほとんどのものを直してしまう。サラリーマンで土日にスキー場に来てはパトロールをしていたが、我々は平日に何か都合の悪いものや、壊れたものがあると、彼が来た時のためにすべてを置いておくのだった。いつだったか私の車(ぼろぼろの中古車)のステレオを、アッという間に8スピーカーにしてしまった。
3月になり春ちゃんと隊長は検定会場の石打丸山スキー場へと出発して行き、胎内スキー場では雪も少なくノンビリとした日常が続いていた。もっともこの二人が不合格になるとは思えないので、仕事が終わると二人の話題で酒を飲んでいた。すべてが終わった頃、電話があり無事合格した事が伝えられる、残っていた我々は、早速合格祝いの会場を手配したのだった。
この時、春ちゃんは仕事が休みの日だけしか練習が出来ないという中で、前にも書いたが新潟県で5番という素晴らしい成績で合格したのだった。子供の頃から競技スキーを続け、もともと持っているポテンシャルが高いとはいえ大変な事だ。もちろん検定前には種目の練習もするけれど、いつもは、ただ速く滑る事や、どんな斜面でも転ばない事を考えているだけだ。
皆さんもこの事をよくわかってほしい。隊長も骨折したり、鼻の下を切ったりといろいろな事があったけれど無事に合格した。私の話しの中心にはいつも隊長がいたので、もう皆さんもなんとなく隊長の事はイメージしていただけると思う。
彼は私ほどではないけれどスキーが上手くないまま胎内スキー場にやってきた。学生時代から志賀高原でアルバイトしながらスキーをしていて、決して本格的に取り組んでいたわけではなく、楽しいスキーを続けていたのだと思う。私が17歳の時に出会い20歳の時にスキーを教えてくれた? この時は2級だったから、私にしてみれば大変に上手い人だった。
校長などに言わせればひどかったらしいが、やはり練習をして上手くなった事に間違いはないし、彼もまた普段から種目の事など考えてはいなかったと思う。
とにかく誰も滑っていない新雪を滑る事が好きで、新雪に美しいシュプールを残す事が彼にとって上手い、上手くないを決める基準だったかもしれない。雪が降った次の日には、急斜面に私を連れて行くと前を滑らせ、リズムを合わせては8の字にシュプールを描く、こればかりやっていた。
「仁、スキーは新雪だぜ」などと言っては描かれたシュプールを見上げ、今にもよだれを垂らしそうなくらい嬉しそうな顔をするのだった。リフトの下に落し物があると、すでに私が拾ってしまっている事を知っていても、拾う振りをしては滑って行くのだった。
一つの落し物を拾うのに何人ものパトロールがリフトの下を滑っていては、遊んでいると思われかねないし、あまり嬉しそうな顔をして滑るのもおかしな話しだから、入って行くタイミングも難しい。
確か私が1級を取った次の年だったと思う。パトロールは仕事上いろいろ危険な事も多い。あの頃は雪も多くリフトの下といっても、ボケッとしていればリフトに頭をぶつけてしまうことだって考えられるから、深雪の中でもとっさに止まったり出来なくては大変な事になってしまうのだ。毎日毎日たくさんの雪が降り中央ゲレンデの端に大きな雪庇ができてしまった。これは雪と共に強い風が吹いた時、地面の切れ目から雪だけが張り出してしまい、当然その上に乗れば崩れてしまうので大変危険で、スキーヤーのためにも落としてしまわなければいけない。
安全に作業をするなら、もともとの地面の切れ目に沿って溝を掘って行くのだが、我々二人でやったのでは何日もかかってしまうので、そこを滑ろうという事になった。ロープをお互いの腰に縛り、隊長が中央ゲレンデを滑り私がその境目と思われるところを滑る、雪の塊が落ちるより速く通過しなければいけない。狙いを定め覚悟を決めると一気に滑り始めた。
現場の中ほどを通過した時、私の足元は見事に落ちた。すごい力で引っ張る隊長のおかげで、私の左足がかろうじてゲレンデにかかったのだった。この事は誰にも話さずに二人で実行した、校長に言えば止められる事も解っていたから・・・。こんな感じでとにかく早く大きな仕事を終わらせては、スキーの練習をするのだった。
きちんと練習を続ければ必ず合格するのだが、間違わないでほしい。練習とは決して種目ばかりにこだわるものでない事を、わかっていただきたい。隊長は新雪を滑りたくて新雪ばかり練習する、何度転んでも起き上がり新雪を滑る。これを続ける事で、それぞれの種目に対して、もっと高い次元の技術が身についてしまっているのだ。
自分の感覚の中で速く滑るためには何をしたらいいか、この斜面を滑れるようにするためには何をしたらいいかを、常に考え感覚をアップさせると同時に、技術が身についてくるのだ。そして、検定前になってじっくりと種目の事を理解するようにしよう。あなたが普段から検定種目ばかりに目を奪われて、その練習を続ける事によって、逆に技術の幅が狭くなってしまってはいけないのだ。練習とは最終的に自分はどこをどのように滑りたいかを考えて、それに向かって努力する事だと思う。
我々はまだ1級に合格するためのパラレルターンが出来ないうちに、新雪で転ばないように練習して、それを達成する。1級に合格するために必要な小回りが出来るようになる前に、コブ斜面を転ばずに降りる事を達成する。方法は何度も何度も滑る事だった。最終目標に向けただ何度も挑戦する事が、練習だと思っている。検定の種目だからといってシュテムターンをいくら練習しても、コブ斜面が滑れるわけではないのだから、練習方法を間違えないでほしい。それさえ間違えることなく続ければ必ず上手くなれる、そして必ず検定にも合格できる。そんな練習を続けながら、スキー教師に細かい点を見てもらうのがいいだろう。そしてアドバイスされた事を練習するようにしよう。
スキー教師って難しい?
3月上旬、胎内スキー場の閉鎖が決まった。雪がなくなればスキー場の営業も終了する事になる。他のスキー場では、少ないと言ってもまだ十分に営業できるのに胎内は終ってしまった。この頃妙高高原で指導員研修会があり、みんなで参加した。準指導員に合格した隊長は研修会が終われば神戸に帰る。
実はこの年の6月、初めに登場した俊子さんとの結婚が決まり、来年もスキー場に来れるかどうかもわからなくなっていた。そして、スキー教師という制度にも、いろいろな変更が予定され、この年の準指導員合格者は特例で、翌年の指導員受験が認められることになったのだ。
私は、隊長と共に受験できると思い喜んだが、隊長自身の指導員受験の結論は先送りされる事になった。
悲しい話ではあるが、我々のように雪のない地方から来る者にとって、スキー教師を続ける事は難しい。地元の人たちは仕事の休みを利用して活動できるのだが、少なくとも神戸や大阪から胎内スキー場まで休みの日に通うなどという事は不可能である。生活の基盤がそこになければ、いずれは去って行く事になるに違いない。基本的に隊長も、この年を最後に引退する事になってしまった。
スキー教師になる事は、一生懸命練習して夢中になってやれば、そう難しい事ではないと思う。しかし、スキー教師を続ける事は、本当に難しいと思う。胎内スキー学校でも、公務員という側面はあっても、人事異動で観光課から離れてしまえば、やはり休みの日しか活動出来なくなり、常勤講師としてスキー学校にいることはなくなってしまう。
これを書いているのは2000年で、今では校長だって建設課長になって毎日スキー場にはいない。検定や研修会には、全日本スキー連盟の専門委員だから行かなければいけないが、いつでもスキー場にいて我々と滑っていた事は、遠い昔の話しになってしまったようだ。
隊長も長野で生活していて、年に一度か二度スキーに出かけるくらいだろうか、それ以外では指導員研修会で滑るのがせいぜいだ。私だってまったく同じ状態に違いはない。
私が準指導員に合格した頃から、校長は酔っ払うと、必ず「仁、もういつやめてもいい、お前だって生活があるだろう。準指導員も取ったし、本当にいつやめてもいいぞ」と口癖のように言うようになった。また別の日には、「もう3年俺に体を預けないか?夏は役場の仕事をすればいいじゃないか」とも言っていた。この3年と言う数字は私が指導員になるのに必要な年数だったかもしれないが、もしその3年が経過したら、校長は次に何を言ったのだろうか。
少なくとも私の人生そのものまでを心から心配してくれていた事を、私が十分に感じていたのは間違いない。
この辺で話を元に戻そう、この研修に行く前スキー場では
校長「仁、どうする大阪へ帰るか? 滑りたければ他のスキー学校へ売り飛ばしてやる」
仁 「お願いします」内心よそでやって行けるかどうか不安はあったが、まだ3月初めだ。大阪へ帰るのはもったいない、滑れるものなら滑りたい。そして指導員研修会が行われる妙高高原池の平スキー場へ向かった。指導員は毎年研修会で、その技術を向上させ指導における方向性などを統一していて、これが終われば隊長も神戸に帰る。
研修会も終わり、胎内から参加したメンバーと来シーズンの再会を約束すると、私は校長に連れられ、池の平バンビスキースクール校長のところへ向かった。ここの校長は私が準指導員を受験したときの面接官の伝田先生だった。校長は「じゃあ仁、頑張れよ。仕事が終わったら大阪へ帰る前に家に寄って行け」と言って帰っていったのだが、その後姿を複雑な気持ちで私は見送ったのだった。
人それぞれ個性があるようにスキー学校にも個性がある。
バンビスキースクールでお世話になる事が決まった私は、またいろいろな事を知る事になる。ここでは胎内の布施さんが、準指導員合格まで働いていたらしい。布施さんは準指導員に合格した翌年から、胎内スキー学校で働くようになった。ちょうど同じ年に私も胎内に行くようになったから、同期入社である。そして2年後、私が準指導員に合格した年に、布施さんは指導員に合格した。
後にバンビスキースクールで一番、私を理解してくれる事になる大谷主任講師は指導者が足りない時、胎内スキー学校へ何度も応援をお願いしたが、布施さんをはじめ誰も来てくれない。「胎内スキー学校なんか大嫌いだ」と盛んに言っていた。胎内スキー学校は講師も少なく、なかなか出て行く事は難しいが、このようなスキー学校同士のつながりも大切なのだ。
バンビスキースクールは、主任をはじめ数名の有資格者が寝泊りしながらレッスンをしている。さらに、朝になると通いの常勤講師達が山に登ってくる。その他は大学のスキー部や同好会の連中が、アシスタントとして働いているから、相当な人数がスキー学校で寝泊りする事になる、私はとにかく胎内スキー学校との規模の違いにビックリした。
3月と言えば学生達は春休みで、少ない日でも30名以上が寝食を共にする。胎内では陥没骨折した高橋 浩がやめてから、土日に非常勤の人達が集まる時以外は、隊長と私それに校長か目玉のマーさんが加わる程度だったし、校長もマーさんも家庭があり、家に帰る日は隊長と私の二人で夜を過ごす事が多かった。
胎内スキー学校では「○○先生」と言う呼び方は、した事がないし聞いた事もなかったのだが、学生達に「仁先生」などと呼ばれるものだから、体中が痒くなるような気がした。ここでは、賄いのおばさんがいて昼食と夕食が用意される。朝食は交代で早起きして作る事になっている。
一週間もするとここの雰囲気にすっかりなじんでしまい、新人にもかかわらず私が一番遅く起きて行くようになってしまった。本当は毎日二日酔いで起きられなかったのだ。確かに人数も多いけれど4月に酒の空き瓶を捨てに行く時、200本近くあったように思う。
朝の8時頃、皆滑りに行き1時間ほどで戻る、10時からレッスンが始まり、レッスンを持たない学生達は練習し、夕方になると4時頃から、強化練習と言う名の練習が始まる。一番上までリフトで上り練習しながら降りてくるのだが、全長4kmほどあり、もう暗くなる6時半頃まで続くのであった。
この時間私も学生達に教える事が多く、彼らにはおかしな事ばかりやらせていた。普段から人数が多い関係であまりおかしな事はしないようで、少しプレッシャーをかけてやると皆すぐに転ぶので面白かった。皆、訳もわからず私の真似をして滑っては転んでいたが、自分の感覚で理解する事ばかり言い続けたので、飛躍的に上達する学生もいた。
自分の上達がわかると彼等は感謝の気持ちを夜の宴会芸で表してくれる、芸達者な学生も多く本当に楽しい日々だった。
そんなある日、岡村先生(1級)に飲みに行こうと誘われた。岡村先生は、そろそろ定年を迎えようかという年齢、休みの日は車で通ってくるベテランスキー教師で、そのやわらかな指導にはファンも多かった。私は3時半にレッスンを終えると着替えたのだが、岡村さん達はスキーウェアのままなので、「着替えないのですか」と聞くと「せっかく赤倉へ行くのだから、少し滑りましょう」と言うので、私も再び着替え岡村さんの車に乗りこんだ。
合計4名、1級2名、準指導員2名で赤倉スキー場に到着し、スキーを下ろすと「実は今日、仁さんに教えてもらおうと思って誘ったんです」と言われ、飲む気満々だった私は気を引き締めるのだった。彼らが言うには、私は他のスキー学校から来て「滑り方が違うように思えてならない」と言うので、私の感覚は余すことなく伝えた。スキー教師歴も長い人達だから、私の言う事はすぐに理解してくれたようだ。結局8時半頃まで滑り、居酒屋へ行き帰って行くのだった、私がすごく簡単に考えている事に驚きながらも本当に喜んでくれた。帰りの車の中で「今日は少し滑って、酒を飲んでいたことにして下さい」と言われ了解したのだった。やはり人数も多く強化練習だけでは満足できない面もあったのだと思う。
難しい事は良くわからないのですが?
夜になると勉強家の学生達は(バッジテストを受験する者もいる)良く質問しに来る、「仁先生、シュテムターンはどのくらい開き出せばいいのですか」などと来るから困ってしまう。私がいつも「難しい事は良くわからないのですが」というものだから、主任もこれが口癖になってしまい、いつのまにか「難しい事は良くわからないのですが」がスキー学校の流行語になってしまった。
スキーを開くのだって、その斜面やスピードによって必ず違うのだ、あなたが回りやすいだけ開けば良いしあなたのタイミングや表現したい事によって調節すればいいのだ。したがって、どのくらい開き出せばいいかを考えて練習するより、スキーにあなたの考えている事や力が伝わるところに乗る練習をする事が大切だ。これが出来るようになれば、
「さあ、開くぞ」と命令した時に体が簡単に反応してくれるのだ。
誰の為にスキー教師は必要なの?
もし大谷主任がこの本を読んだら、抗議の電話が鳴るかもしれない。彼は当時43歳だったと思うが、とにかく目つきが悪く(目が悪いだけかもしれない)体も大きく、一見してその筋の人にしか見えない。生徒さん達もさぞ怖がっていただろう。このままでは抗議の電話が鳴りそうなので本当のところを書いていこう。
一見怖いのだがスキーを心から愛する情熱ある素晴らしい指導員なのだ。私と酒を飲むといつでも、
「仁ちゃん、これだけたくさんスタッフがいるのに、まともにスキーを教えられる奴がいないんだぜ」と言っては嘆くのだった。妙高高原では修学旅行などで訪れるスキーヤーも多く、忙しい時にはたくさんの教師が必要になるため、大学生にお願いする事も多い。この人達には強化練習などで指導の仕方を教えて行くのだが、やはり有資格者達と違い難しい事が多い。
有資格者でも出来る人のほうが少ないかもしれないが、主任はいつでも教える相手のことばかりを考えてほしいという事を言いたいのだ。例えば「3級のシュテムターンをやってください」などと良く言った。学生達は下で見てくれているから、上手く滑ろうとばかりする。しかし、「皆さんが教えるレベルの人に、そんな滑りを見せたってわかるわけがない」と言うのだった。
3級のシュテムターンで、開き出したスキーを素早く引き寄せて、ピタリとスキーをそろえて滑る事など要求しない。この事をいいたいのだ。スキー教師は「求められる滑りを求める人の為に、見せてあげなければいけない」と力説する人だった。検定を受けたことのある人も多いと思うが、すべてではないけれどスキー学校によっては前走を出してくれるところもある。
この滑りを見て「すごいなー」と思うのと、「あのくらいでいいの?」と思うのとどちらがよいのだろう。私は「このくらいの滑りで合格できますよ」と言う滑りを見せてあげるのがよいと思っている。3級のシュテムターンの前走をする時、どちらかと言えば初めから終わりまでプルークで滑り、もう次のターンになる前に少しだけスキーを平行にしてやる。
これを見た受験生に、「この検定員下手だな」と心から思われるとちょっと悔しい気もするが、それでいいと思っている。我々は仕事をしているのだから、少しでも受験者に落ち着いた気持ちで受験していただきたいのだ。皆さんがもし検定の時に、前走をする人がこのように滑ってくれたら、余計な事は考えずに素直に「自分のほうが上手いや、この程度でいいのか」と思って自信を持ってスタートしよう。もしやたらと上手く滑る人だったら「この人は何もわかってないや」と思って軽い気持ちでスタートしよう、とにかくいつものとおり滑ればいいのだから簡単な話しだ。
女性関係
たまには仲の良いペンションのオーナーに誘われて遊びに行く事もある。多くのペンションには、居候といって朝夕に手伝いをして昼間スキーをする人達がいて、私が知り合いのペンションに呼ばれ酒を飲んでいると、近所からこのような人が集まってくる。
真剣に上達を目指す人達はスキー学校のシーズン券を買って、それこそ毎日のようにスキー学校に来るのだ。とにかく上手くなりたくて仕方がないのだった。中には「私、コーチの班になった事があります」などという娘もいる。当然スキー教師に対する憧れもあるから、彼女達のスキー教師に対するイメージを崩さないように、おとなしく飲んだりするのだった。「コーチ、彼女にして下さい」などと口説かれることもある。
ある時は、「仁ちゃん妙高に養子に来ないか?」などと言われたこともあった。旅館の娘さんがスキー学校に入り、私の班になり気に入ってしまったらしい。何も知らない人は「スキー教師はモテるから、遊んでいるに違いない」と思うかもしれない。しかし、ほとんどの場合、レッスンが終われば自分の練習だ。中には遊んでる人もいるかもしれないが、そうはいかない。男だから女性は好きだけれど、スキーはもっと好きだ。
少なくともシーズン中はスキーの事で頭がいっぱいだから、スキー教師を狙う人はレッスンが終わってから連絡先を聞いて(教えてくれるかどうかわからないが)シーズンオフに連絡したほうがチャンスは高いだろう。独身のスキー教師なら会ってくれるかもしれない! ただし、相手は季節労働者だから、生活の安定を求める事はあきらめたほうが良いかもしれない。
スキー学校は体育会系のノリ!
さて、主任は怖い顔をしていると書いたが、私と同じ年のコウスケ(指導員)とコウイチロウ(一つ年下の指導員)たちと学生諸君には、いろいろな事を教育して行くのだった。まず、やくざ映画のように主任の事は「オヤジ」と呼び、我々3人は「オジキ」学生達のリーダーのマサシは「アニキ」。声をかけるときはドスの聞いた声でなければいけない。
私が風呂に入ると「オジキ、失礼します」と言って3人くらいが後に続き、体を洗ってくれたりする。何をバカな事と思われるだろうが、下界から隔離された世界で数ヶ月を過ごすのだから、男ばかりで楽しく遊ぶ事ばかり考えているのだ。
女性教師達は自宅や別の寮から通ってくるので、夜寝る時、彼女達に内緒でユニフォームを抱いて寝たり、着て寝たりするのだ。我々オジキ3人は酒に酔うと、学生達に「下で見てるから一本滑って来い」などと言って暗闇の中スキーを担いで登って行くのを見届けると先に寝てしまったりする。だいたいにおいて、夜だしナイターのゲレンデからも遠く、良く見えるわけがない。
それでも酒を飲みスキーの話ばかりする我々の後ろで、聞き耳を立て何かをつかもうとしている彼等は着替えて出て行く。こんな姿をいつも見ているから、翌日にはまた彼らを上手くしようと必死になるのだ。
先輩達が雨の中、びしょ濡れになって滑る私達を同じようにびしょ濡れになりながら、いつまでも見ていてくれたように・・・。
宴会芸
学生達は我々がスキーを教えると、必死になってお礼をしてくれる。これがまたすさまじい。酒を飲み酔ってくると我々の「そろそろ、何か見たいな」と言う言葉を合図に、芸を披露してくれるのだった。さすがに先輩に鍛えられているのか面白いのが多い。
中でも水泳大会は最高だった。全員一糸まとわぬ姿になり、「ヨーイドン」の声と共にゲレンデを自由形で泳いで行くのだ。スキー学校の前からゲレンデの反対まで行くとターンして戻ってくる。このターンがなんとクイックターンなのだから笑わせる。当然脚の間でブラブラしているものも月明かりの中、おぼろげに浮かび上がって笑い転げる。
夜も遅く10時頃の話しだから雪面は凍り、気温が下がった中でやるやるから、ゴールした者から風呂場へ飛びこんで行く。これを見せられた日は布団の中で「明日はどうやって上手くしてやろう」などと考えながら、心地よい眠りにつくのだった。
だいたいスキー教師の素顔は、こんな感じでどのスキー場でも大差はないと思う。暴露記事のようで私もスキー連盟から破門などといわれては困るので、ほとんどのスキー学校ではこんなことはないという事にしておこう。
ここに書いた事は、私の夢の中での出来事と思っていただきたい。
誰が悪いわけでもない
4月上旬、全国スキー学校大会が志賀高原で行われ、ジン、コウスケ、コウイチロウ、テツの4人が選手として参加する事になった。これは毎年シーズンの終わりに各スキー学校が4人一組でデモンストレーションを行い、検定員により採点され、ポールのタイムと集計され順位がつけられる。
コースには2箇所にジャンプ台が作られ、4人の選手はクロスしたりしながら、その美しさと速さを競い合う。我々は大谷主任をコーチに池の平で練習をして志賀高原に乗りこんだのだが、残念な事にスタートしてはじめのジャンプを終えたとき、テツが膝の靭帯を切ってしまった。どうやらシーズン中から痛めていたらしい。お祭りのようなものだから無理をする事もないのだけれど、彼はまじめな男だから無理してしまったのかもしれない。
結局彼はこの日家へ帰って行き、翌日は残った3人がポールを滑りすべてが終了した。成績が振るわなかったのは言うまでもないだろう。引き続きスキー学校の納会が行われ、昼過ぎに到着した若手のメンバーは、子供のように滑るのだった。夜になると50名ほどの大宴会でヘロへロになり、シーズンは終っていった。
翌日スキー場に戻ると、スキー学校の営業も終わり、すっかりかたづけられていて、この日を最後に私も帰る事になった。その夜みんなに「胎内やめてバンビに来い。」などと言われた。
私にとってここも大変居心地良く、文句は何もないところだ。自分の時間だってたくさんあるし、給料も高い。
胎内スキー場では、8時にゲレンデを見て回ると9時50分に着替えてスキー学校に出る。12時に終わり食事を済ますと、1時30分に午後のレッスンが始まる前に、もう一度ゲレンデを見てこなければいけない。したがってスキー靴を脱ぐ事は出来ない。3時30分に午後のレッスンを終えると、すぐに着替えてパトロールの仕事に戻る、ナイターで練習して終わると、圧雪車のオペレーターと打ち合わせをする。雪のないときには徹夜で雪を持ってくる事もある。
では、バンビスキースクールはどうだろう。朝食を済ますと滑りに行くのも良し、休んでいるのも良し、午前のレッスンを終えると昼食後、昼寝でもして午後のレッスンに向かう。3時30分に午後のレッスンを終えれば、4時30分頃から練習し7時前に夕食、酒を飲んで寝てしまえばいい。もっともいつでも滑れるわけではないのが悩みの種だろうか。校長をはじめお年より(怒られそうだ)の皆さんにも可愛がられていたし、雪がないという事はない。
スキーの練習をするのにどちらが適しているかと言えば、難しい問題だけれど仕事をするのに待遇がいいのはどちらかと言えば、答えは明白だった。胎内スキー場に戻れば、応援の講師として来る事はあっても、もしかするとバンビスキースクールでの、楽しかった生活は最後かもしれない。ここなら、しっかりと4月までスキーが出来る事に間違いはない。
いろいろ悩みもしたけれど、胎内スキー学校に戻ることにした。胎内に戻り家に寄った私を校長は「ご苦労だったな。」と言って、いつものように迎えてくれ、何度も何度も「お疲れさん、みんなに可愛がってもらったか?」と言いながらビールを注いでくれるのだった。校長と出会って4年になるが、この日の校長は今まで私の知る校長とは少し違うような気がした。
この人との出会いがなければ絶対に、私は指導員などになれなかったはずだ。スキーに対する考え方や、生き方まで学んだと言っても過言ではない。決して多くを語るわけではない、バカな事ばかり言っている中から、そのすべてを吸収してきた。しかし、他のスキー場に行かせる事が本意でない事は、その短い言葉や振る舞いから、痛いほど伝わってきた。
誰が悪い訳でもない、雪が降らない事が悪いのだ。胎内スキー場だけではない、しっかりと営業しているスキー場もあるのに、なぜ雪のないスキー場があるのだろう。当然地元にとってもスキー場は大きな収入源だから、営業できないのは大きな痛手に違いない。それと同時に、その片隅で苦しんでいるスキー教師だって多い。
酒も進み私が「デモになる」などと言い出したら、いつもの校長に戻り「俺がなれなかったのに、仁がなれるわけないだろう。」と言って校長は昔話をするのだった。
スキー教師のすべてとは言わないが、皆夢を持って挑戦して行く。その中で先輩達の教えを受けて練習を続ける。
目標が達成できない人が多いのは、わかりきった事なのだが、自分の練習量が足りないだけかもしれない。すべて自分の責任だ。雪が降らない事まで自分の責任とは言えないけれど、いつも、あなた自信が納得できる練習をしよう。今すぐには上手く出来ない事も多いけれど、あなたが努力を積み重ねて行けば必ず結果が見えてくる。
もう青々としたゲレンデの見える胎内スキー場で、2日ほどのんびりとした私は大阪へと向かった。
ついに指導員検定受験の年がやってきた!
1988年12月 胎内スキー場で過ごすのも5シーズン目となった。何もわからず、指導員という目標があったわけでもなく、ただ人との出会いに引き込まれて4年前ここへやってきた私にも今は目標がある。指導員合格そしてデモンストレーターになる事だ。
結論から書いてしまえばデモンストレーターにはなれなかった。選手権に出場する事もなく胎内スキー学校を引退した。しかし指導員には合格した。なにも難しい事はない、ただ上手くなりたい、転ばずに滑りたいと思い毎日毎日練習した結果で、皆さんにも必ず出来る事だ。
この年小林隊長は長野で仕事につき、指導員検定前の一ヶ月を胎内で過ごす事が決まり、指導員受験者は私と隊長、関取、春ちゃんに秀毅さんの5人となった。高橋 秀毅さんは当時40歳位だったと思う、本当にスキーが好きで公認パトロールの資格も持ちスキーの事ばかり考えている人だった。昨シーズンも悲惨だったけれど、この年もまた雪は降らなかった。年が明ける頃まではスキー場でネットを張ったりしていたが全然スキーも出来ず、あまりにもつまらないし仕事もないので10日ほど遊びに行く事が許された。
ここが本当に滑れなかったのだろうか
初めてスキーをした栂池では、当時働いていた山小屋の支配人がロッジを始めていて、お世話になった。皆さんは不思議に思うかもしれないが、結構いろいろな人に可愛がられていて知り合いも多かったので、何処のスキー場に行っても泊まる所と、飲み食いには困らなかった。
そうでなければ私など、当時は相当に貧乏だったからスキーなど出来るわけもない。支配人と滑りに行ったら本当に驚いて、「俺の知っている上手い奴の中でも、仁は3本の指に入るよ」などと大袈裟に言われた。準指導員に合格した年にも来たけれど、今は1月なのであの時とは雪が違っているし最高だ。
始めて来たのも1月だから今のほうが状態は近い。
ゲレンデの途中で止まると、ここで転んだんだ。この斜面は尻でズルズルと降りて行ったんだと思い出す。初めて滑った2日の中で一番好きだった鐘のなる丘ゲレンデでは、こんなに平らだったかなと思った。滑りやすかったと言っても、もっと急だった記憶しかない。
おととし来た時は首輪を取ってもらった犬状態だったから、しんみりと思い出すひまもなかった。
上達するためには練習も必要だし、それなりの考え方も大切だ。しかし、あなたが考え方を変えて取り組めば必ず上手くなる。上手くなったと思ったら、自分が滑れなかったゲレンデに帰ってみよう。あなたが変われば斜面も変わる、この事は技術にも言える、急斜面がしっかり滑れるようになったら、緩斜面に行ってみよう。
今まで表現できなかった細かいところが、いともたやすく表現できる事に気がつくはずだし、苦労して身につけた事が簡単なことに思えるに違いない。今上手く出来ないからと言って、あせる事はない。必ずあなた自身の感覚が身についたときには簡単に出来るようになっている!
一人になると忘れてない?
4時頃まで滑って、我々はシャレー白馬に戻った。アルバイトや居候が7,8人いるようだ。お客さんの食事も終わり、従業員の食事が始まると、みんなチラチラ私の事を見ている。仕事をしながら私のことは聞いているようで、「僕の知り合いの仁君、準指導員だから明日見てもらえよ」と紹介されたとたん、彼等の目の色が変わった。
朝食を終えると、待ち合わせの時間と場所を決め私は一足先に滑りに行った。集まったみんなは、さすがに毎日滑っているから上手いもので、結局4時頃までスキーを教えて帰って行くのだった。途中あまりにも、みんな緊張しているのでわざと転んでやったら、本気で笑われてしまった。
「わざとやったんだ」と言いたかったけれど、あまりにも喜ぶので黙っていた。彼等は本気で上手くなりたいと思っているから、転んだ事を境に、いろいろと質問してくれるようになった。
最後に「いつも見てあげられるわけではないから、自分で滑る時に今やった事を忘れないようにしないとダメだよ。体が覚えてしまえば忘れていいから」と言ってあげた。
スキー教師に何かアドバイスされ、一人で滑る時に元通りという人が多い。その日にレッスンした生徒さんが滑っているのを、リフトの上から見かける事がある。レッスン中は良くなっていても、元に戻ってしまっている。
お願いだから、新しい感覚を知ったあなた・・・一人で滑る時も、忘れずに体に命令してほしい。それほど長い時間は必要としない、あなたの体が覚えて勝手に再現してくれるようになるまで、長くても数日の事だ。
確かに常に命令しながら、注意しながら滑るのは面倒な事だ。しかし、自分の滑りを変えられるのは自分しかいないのだ。せっかく高いお金を払ってスキー学校に入るのだから、あなたの体が覚えてしまうまでは、注意深く練習を続けてほしい。
スキー場によってレベルが違うの?
この後、別の知り合いを訪ねて八方に行った。私が1級を取った年の夏場、周りの人達は、「1級といっても、胎内なんて聞いた事もないスキー場じゃダメだ。やっぱり八方で取らなきゃ」 別の人は「志賀で受けなおせよ」などと言っていた、皆さんの中にもこのような考えを持つ人がいるかもしれない。しかし、検定員にも免許がある。
準指導員はC級公認検定員、指導員はA,B級公認検定員というように受験できる免許が違い、当然実技と学科の試験を受けて合格した人達が検定員となる。この免許にも毎年研修会があり全員、常に目を鍛えているのだ。したがって、何処そこの1級だからなどと考える必要はない。それでも八方でなければという人がいれば、それはその人の価値観であり、何も問題はない。
中には準指導員に合格した私に、「八方なら1級も取れないよ」という人までいた。しかし、このような人は、ただ知らないだけだから別に相手にする事もないだろう。
もしあるスキー場で不合格になった人が別のスキー場で合格したとしても、それぞれのスキー場のレベルがどうという問題ではない。この人が不合格の後、必死になって練習し一歩上の感覚を自分の物にしただけなのだ。良く考えてほしい、各スキー学校ではバッジテスト用の講習をしているではないか。これは単なる客寄せではない。
検定員だって心から、全員の人に合格してほしいと思っている。事前講習だって、スキー教師は合格してもらおうと必死になって教えているのだ。ただ、何度も書いたように、そのレベルに達していない人が2,3日前に種目を見てもらったからといって、合格できるものではないのだ。
もしも全員がそのレベルに達しているなら、ある検定では全員が1級に合格するのだ。とにかく、あなたの感覚を磨いて行く事が大切で、それさえ身につけば何処のスキー場であろうと関係ない。
さあ!自信を持ってあなたがコツコツと積み重ねたものを評価してもらおう。
指導員や準指導員は、ほとんどが検定員の資格も持っている。顔見知りのスキー教師に「そろそろ受けてみたら」と言われたら?
もうお分かりだろう。あなたのレベルは間違いなく合格ラインに達しているのだ。躊躇する事はない、自信を持って受験しよう。
とんでもない音!
この後、私にとって衝撃的なことがあり、飛躍的に上達する事になる。
胎内には、私が立ち寄りそうな場所の連絡先は、置いてきていた。そこへ、春ちゃんから連絡が入った。私は、雪が降ってスキー場がオープンするから帰って来いという電話と思い喜んだが、そうではなく、菅平スキー場で行われる選手権予選に春ちゃんが出るので、一人で心細いから来ないかというのだ。
さっそく私も菅平へと向かった。彼も練習不足には違いないけれど、準指導員検定5番だ、多少期待してもいいだろう。昼前に合流した我々は、コースの下見に出かけた。この時私の仕事は彼をサポートすることだ。選手達は待ち時間が長く寒いので、彼らが脱いだ上着をゴール地点まで持っていったりするわけだ。
急斜面ウェーデルンのコースはカチカチに凍っていて最高のバーンだった。このところ毎日滑っていた私は絶好調で
「サポートのほうが、いい滑りするなよ」などと春ちゃんが言っていた。シーズンに入って彼はまだ一度も滑ってないから、受付の時間ぎりぎりまで滑って宿へ戻った。軽くビールを飲みながら
春彦「仁は申し込みしなかったの?」
仁 「雪があればジュニアの大会があるじゃん、校長が今年は我慢しろって」
春彦「申し込みだけしておけば良かったのに」
仁 「こんな事になるなら、申し込んどけば良かったな」
実は、準指導員に合格した年から「私も出てみたい」と校長には言っていて、ある条件をクリアして去年許しはもらっていたから、本当はこの年参加するはずだった。しかし、12月下旬スキー学校で
仁 「俺、選手権行っちゃダメですか」
校長「ジュニアの大会があるから、お前ががいなければ困る。もう一年我慢しろ」
こんなやり取りがあった。この頃は平日のスキー学校は常勤が5人、パトロールは小林さんが引退していたから私一人、とてもじゃないが出て行けるものではない。
「来年は必ず何とかしてやるから」と言う校長の言葉を寂しい気持ちで聞いた私だった。
さて、初日急斜面ウェーデルンでの事だ。甲信越予選なので、長野、山梨、新潟の選手が出場していて、当然デモンストレーターも出てくる。コース名は忘れたが急斜面はカチカチに凍っていた。選手のスタートリストを見ながら、春ちゃんの上着を持ち降りて行こうとした時だった。
私は一人の選手が出す音に感動を覚え、必死でその音を自分の耳に焼き付けようとしていた。渡辺 一樹デモが滑り始めたのだ、これが衝撃的な出来事だ。それまでの選手達が、ガガガ、ガガと言う音で降りて行くのに、彼はカッ、カッ、カッと言う音で降りて行くのだった。わかりにくい書き方で申し訳ないが、私の感覚なのでお許し頂きたい。要するに大変エッジングが短いのである。
この音を耳に焼き付ける事によって、私の感覚は飛躍的にアップしたと思う。皆さんも上手い人の滑りを良く見て、聞いて、自分の目と耳に焼き付ける事だ、必ずあなたの感覚もアップするに違いない。そして焼き付けた音と、同じ音になるように何度も練習すれば良い。
何度も自分の感覚と書いているが、あなたが聞いた音はあなたにしかわからない、だからこそあなたの感覚が大切なのだ。
結局、春ちゃんの成績は参加1年目の緊張もあるし、ふるわなかった。しかし、大変な収穫を得て帰って行くのだった。
スキー教師達の夢
胎内スキー場に何も知らないまま来るようになった私だが、いろいろな事を覚えるうちに、最初の年(まだ1級も取っていない)から、デモンストレーターになりたいと思うようになっていた。先輩達も同じ夢を持ち、実現に向けて努力してきたけれど、残念ながら胎内スキー学校からデモが誕生した事はない。
まずデモになろうと思えば、選手権の予選を通過しなければならない。
選手権に出たいと言う私に校長が出した条件とは、デモのように美しく滑る事でも、ターンを正確に表現する事でもなかった。
校長「仁、俺より速くなったら出ていいよ」
仁 「・・・・」 これだけだった。
皆さんは信じられるだろうか、仮にも全日本スキー連盟の専門委員で指導員検定や選手権の役員、検定員をする人が言うことだ。しかし、これが全てだという事をわかってほしい。
スキーはスキー、転ばずに速く滑り降りたほうが上手いのだ。うまい人にはそれだけ点数が出る。
毎年3月になると、お客さんも少なくなり我々は楽しく過ごす事を考える。そこで誕生したのが、胎内スキー学校杯争奪トップ総取りスキー大会だ。参加料は500円、優勝者が全額を頂く。優勝者は結局ジュースを奢ったりするから、何も残らないのだが、成績表はスキー学校に張り出される。
スキー学校では優勝者が一番上手いことになるから、みんな必死で滑るのだった。3月の晴れた日にポールをセットして、小さいながらも電光掲示板を使い行う。私は準指導員に合格した次の年、とうとう校長よりコンマ何秒の世界だけれど速く滑った。この時は、後に選手権の常連となる敏夫と和弘が大学生で、彼らにはハンデがプラスされたのだが、それでも我々より速かったと思う。毎年選手権に出場していた和田さんが、敏夫たちを除いた中で1位、関取が2位、私が3位、校長が4位だった。
20数名が参加して、みんな楽しそうに滑っているが、本当の所は計り知れない、スタートすれば本気だ。和田さんはゴールするとすぐ自分のタイムを見て「仁に勝った」と言っていたし、関取もガッツポーズが出たから、私も少しは上手くなったと認められたような気がした。校長は悔しそうな顔をしていたけれど、私が近寄ってガッツポーズをするとすぐ嬉しそうな顔に変わった。
かたずけてスキー学校へ戻ると、成績表が張り出される。これを見ながらワイワイ言うのがまた楽しい。しかし、誰一人いい訳はしない。遊び心から始まった大会でも、滑り出せば負けたくないから本気だ。普段から速いほうが上手いと、みんなが理解しているからそれでいいのだった。
スキー教師達の理解の仕方のほうが、皆さんより簡単ではないだろうか。
ポール以外では、やはり転ばずに滑ったほうが上手いと理解している。そして、夜になり校長と酒を飲んでいるとき
仁 「選手権、出てもいいですよね」
校長「いいよ」
まだ、私なんかが出たって成績が出るものではないと思う。しかし、出てみたい、デモンストレーターになりたい。何度も師に恵まれたと書いたが、一度だって構えがどうの、スキーの開き方がどうのなんていう教え方をされた事はない。いろいろな人がスキーを教えてくれたけれど、外見を直せと言われた事はなかった。スキー教程に書いてある事がわからないという私に目玉のマーさんは
「仁がデモになれば、お前の滑りがスキー教程じゃないか」と答えたのだった。
デモになりたいと言う私に、「俺がなれなかったんだから、仁がなれるわけないよ、まあ上手くなるのはこれからだからわからないけどな」とか「練習すればなれるかもしれないよ」とか、20歳で初めてスキーを覚えた人間がデモになれるわけがないとは誰一人言わなかった。
そして、その可能性があることを教え続けてくれたから、私はひたすら練習を続けられたに違いない。
あの時の先生ごめんなさい
胎内スキー場に戻り数日がたった頃、まだ営業できずに毎日退屈な日々を過ごしていると、戸島さん(準指導員)がやってきた。戸島さんは、私が準指導員を取る前にはたまに見てくれたのだが「仁の滑りは、何と言うかこう、軽いんだよなあ」と言う感じで、どこがどうとは言わなかった。
私は一人になると重い滑りをしようと練習するのだが、体重を増やせばいいのかな?と言う感じで、いまいちわからなかった。いつだったか少しエッジの使い方がわかった頃、戸島さんは私の滑りを見て「軽くないね」と言った。本来ならしょっちゅうスキー学校に来てスキーを教えているはずなのだが、雪もないので何もできない。
コーヒーを飲みながら皆で話していると、戸島さんが新聞か何かで見たらしいが、隣のスキー場にイタリアから女性教師が来ているから、どんな滑りか見に行こうと言うのだった。皆は「スキー学校に入って、習ってくればいいじゃん」などと言い始める。結局私と戸嶋さんはスキー学校に入ることになった。しかし、いくらなんでも準指導員が二人そんなことをしてはいけないのではないか? SAJのスキー学校ではないしイタリア人教師は上級班を教えているから、レッスンが始まれば白状すれば問題ないだろうと言う話になり、出かけていった我々は申込書には1級と書いてレッスンを待った。
クラス分けが始まり我々が滑ると、彼女は「オーウマイネ」と言って若い男性教師を呼んだ。自分の手に負えないと判断したらしく、若い男性教師が担当する事になり、ちょっとがっかりした二人だった。いろいろな事をやらせるのだが、全てこなしてしまうし、本当にやりにくかったと思う、「ついてきて下さい」と言って滑り出すと、どうしても追いついてしまい彼のスキーを踏んでしまう。急斜面で本気になって滑って行くのに踏まれるのだから、明らかに後ろから来る人のほうが上手い。
大変恐縮していたが、ここまで来ると黙ってもいられないし、白状するわけにもいかないので、学生時代、本気で競技をやっていたと言って誤魔化すのだった。本当に悪い事をしたと思うが、その反面、あの丁寧な指導は見習う事も多かった。 SIAのスキー学校の指導のやり方も少し理解させて頂いて、我々のプラスになった事は間違いない、この場を借りて、お礼とお詫びをしたいと思う。
自分の目と耳を信じよう
数日後、何とか雪も降り営業が始まり、小林隊長も合流して賑やかな毎日が始まった。関取も準指導員合格の翌年から、リフト関係の責任者としてスキー場で勤務しており、受験生どうしアドバイスしあいながら練習するのだった。ヒマがあれば校長も見てくれた。
この頃の私はとにかくあの音を出す事に夢中だった。カッ、カッ、カッである。ゲレンデがアイスバーンになると必死で再現しようとしていた。カッコなどどうでも良い、頼りにするのは自分の耳だけ、力の入れ方を変えたり、とにかくいろいろな事を試して行くのだった。何度も滑る間に、一度だけでいい、同じ音さえ出れば! その音を聞き逃してはいけない。
おそらく斜面も違うし、技術も違う、全く同じ音が出せるはずはない。しかし、自分で感じる事の出来る範囲で、同じ音を求めるのだ。同じ音が出れば、その時の体の使い方を再現すれば良い。一度だけ同じ音が出て、後は全然わからなくなってしまうことも良くある。しかし、あせる事はない。一度同じ音が出たということは、あなたの体が覚えているということで、追い続ける限り、必ず再び出会うことが出来る。
運悪く、私はワールドカップやオリンピックなどを目前で見たことがないが、これらを見ることによって、もっと上達できるはずだ。上手い人の感覚は我々には計り知れないものだ。したがって、自分の見たとおり、聞いたとおり感覚を磨いて行こう。
そして数日後、いつもの通り酒を飲んでいると、校長が「仁も少しはエッジの使い方がわかって来たな」とポツリと言った。以前、チャレンジコースを滑ったときに「上手くなったな」と言った時と同じ表情で。
次の瞬間、私が「固い斜面を滑る時の音でひらめいた」というと、今まで私に見せた事のないような嬉しそうな顔をしたのを今でも忘れられない。
この時私だって準指導員である。エッジの使い方がわからないわけではない。しかし、校長が持つ感覚とはレベルが違っていたのだ。皆さんにも、この事をわかって頂きたい。上手い人と、そうでない人の間に大きな差がある、例えば校長の感覚と私の感覚に大きな壁があれば、単にエッジの使い方と言うだけでは、話しにならないのだ。
エッジの使い方と言っても奥が深い、スキーを傾けるとか言う話だけでは済ませないが、皆さんにも必ずわかる時が来る。さて、校長と私の壁みたいなものは、私がたった一度カッ、カッ、カッという音を聞き自分の物にする事によって取り払われてしまう。真剣にスキーに取り組み自分の感覚を大切にして行けば、これほど簡単だと言う事を理解してほしい。
あなただって同じだ。あなたの感覚がアップすれば今まで出来なかった事が突然出来たりする。しかし、自分の感覚を意識して大切にしていなければ、こんな事は起こらない。開いて閉じてなどという外見ばかりに目を奪われていては、絶対に身につかないのである。
是非、早い段階で、やっとスキーをはの字にして滑れるようになった人でも同じだ、この事を良く理解して練習するようにしてほしい。そうすれば、あなたも驚くようなスピードで上達して行くに違いない。 この頃の私はとにかくあの音を出す事に夢中だった。カッ、カッ、カッである。ゲレンデがアイスバーンになると必死で再現しようとしていた。
自分の感覚
なぜ自分の感覚が大切だと何度も書くかと言えば、あなたがどこをどのように動かせば、スキーが回るとか止まるとかわからない限り、どんなに教科書を読んでも理解できないからだ。例えば、スキー雑誌の解説で、「3コマめの写真では、雪面のとらえが甘くなってしまっているので注意しましょう。」と言う文章があるとしよう。どうすれば甘くならないのか、これが一番知りたい事ではないか。
カセットデッキの使い方なら、説明書を読めば誰でも同じように動かせる。しかし、スキーは違う。それぞれのスキー教師によって説明の仕方が違って当たり前なのだ。それなのに毎回違う本を読んだり、違うスキー教師に教えてもらったりするのだから難しくなってしまう。いつも同じ人に教えてもらえと言っているのではない。出来るだけ、多くの人に教えてもらうほうが良いに決まっている。
ただ、一つの事を理解して再現するのは、あなたなのだから、あなた自身の言葉や感覚で理解し、体に命令してやる事が大切だ。確かに難しいことかもしれない。あなたにわかりやすく説明してくれる人が見つからないかもしれない。しかし、それはそれでいい事。あなたが、その説明を聞き練習し、今までと違う感覚になれば、もう一度見てもらえばいいのだ。
「それでいい」とか「そうではない」とか答えが返ってくるうちに、あなたは確実に上達して行く。ただ、今までと違う感覚でなければ何の意味もないので注意が必要だ。こんな時は、とにかく極端に体を動かしてみよう!
最近のスキーはサイドカーブが強くなって、皆さんもカービングを実感しやすくなったと思う。スキーの性能や今まで上手い人しか感じる事の出来なかった感覚を、たやすく知る事が出来て素晴らしい事だ。
しかし、上体を倒してなどと外見から真似しても絶対に上手くいかない。あくまでもスキーに力を伝えた結果が外見に表れるのだ。
あなたがスキーに力を伝える事によって、そのターン弧やスピードにあった姿勢が出来あがるのだ。外見ばかりを見てしまうから、そのターンに必要でない姿勢を作ろうとしておかしくなる。あなたの感覚でスキーに力を伝える事が大切だ。
指導員検定が始まった
指導員検定は全国5会場で実施される。我々は甲信越ブロックなので、この年5人全員が新潟県、新赤倉スキー場での受験となった。私と関取は準指導員検定と同じ会場になる。校長は検定員として先に出発していて、我々は春ちゃんの車で出かけていった。胎内は雪が少なく急斜面は滑れなかったから、我々は雪のあるスキー場が嬉しくて、受付の時間まで子供のように滑っていた。
最初の種目は、制限滑降である。この日の私のスキーは出発前日に、敏夫がチューンナップしてくれて完璧な状態だった。受験人数も多く4コースで同じようにセットされ、4人が同時にスタートして行く。2人同時にスタートと言うのは良くあるけれど、4人となると大変燃える。
たまたま、私の列のスタート係が校長で、「仁、一発やってみろ。皆、本気で滑らないから面白くねえや」などとけしかけられ、その気になってスタートした私は、途中転びそうになった。が、何とか持ちなおしゴールすると、春ちゃんが下にいて「仁、負けてるじゃん」と言った。私が「転んだんだよ」と言うと「見てたヨー」と言って笑うのだった。合格ラインは基準タイムの120%なので合否には問題ないが、それより、横で滑る人より遅いのは腹が立つ。
総合滑降になると、濃い霧で10m先も見えないような状況の中、検定は続けられた。トランシーバーで「ゼッケン○○番スタートします」とスタート係からゴールへ伝えられるのを合図に受験生達はスタートして行く。検定員はコースの途中まで登ったり、降りたりと霧の状態に合わせて動きながら採点していた。ほとんどの場合、音で判断する状態だったと思う。
もし皆さんがバッジテストなどで、このような状況になったとしても心配する事はない。こんな状況でも検定員は、しっかりとあなたの技術を聞き分けてくれる。音が聞こえ、少しの時間、見ることが出来れば何の問題もない。1級2級を受験する皆さんなら「見えないのに点なんか付けられるのだろうか」と思うかもしれないが、受験生も皆検定員の資格を持ち、同じような状況を経験しているから、きちんと点数を出してくれる事を疑うものはいない。
スタートが近づいたが、まだ私は悩んでいた。見えないから安全に滑っていこうか、それとも本気で行こうか、このように悩む時はろくな事がない。
前の人がゴールした事をトランシーバーの音で知った時、やっと決まる、「面倒だ飛ばしていこう」、いろいろ考えても今の緊張感の中で出来るわけがないのだ。
そして、何も見えない中スタートして3回転目が終わろうとした時、突然ゴールポールが目に飛び込んできた。今の向きではゴールの外に出てしまう、慌ててスキーを回した私は、コースの端にたまった雪にスキーを取られ、転んでしまう。運良くスキーは着いていたので、起きあがり2,3歩進むとゴールだった。
「ダメかもしれない」と思いながら、ゴールから出ると小林さんが立っていて「仁、ほとんどゴールしてからだから大丈夫だ」と慰めてくれた。
私は本番に弱いのかもしれない。しかし、自分の積み重ねてきたものしか出せるわけがない。どんな斜面でも転ばない事を目標にして練習してきたはずだ。
それなのに今転ぶとはどういうことだろうか。転ばない事が私にとって上手い下手を決める基準なのだから、私は限りなく下手な事になってしまうではないか? この落ち込んだ気持ちを変えられないまま、検定は続いていった。
ウェーデルンではとにかく確実に滑る事だけを考え滑った結果、なかなかいい感触だった。しかし、まだ気持ちの切換えは上手く行っていなかったようで、パラレルターンではまたしてもやってしまった。硬く締まったコースを調子よく滑りゴールする。ゴール地点は何人もの人が滑り終え、雪のたまったところと、カリカリに削られたところが交互に並んでいて、雪のたまったところを越えた時、再び尻餅をついてしまった。
「下手だなー」頭の中は、この言葉一色になる。
この時も小林さんと秀毅さんが下で見ていて「転ぶなよ、と思ってたら本当に転んでやがんの」と言って笑っていた。今思うと何故私がゴールすると誰かがいたのだろう・・・。
やはり私は大変落ち込んだが、自分の下手さに腹が立った。何を今まで練習してきたのだろう? そして、初日に5種目を終えると宿へ戻っていった。
夕食では「お疲れ様でした」の後乾杯になるのだが、私は本当に師に恵まれ、環境に恵まれていたと思う。皆それぞれ上手くいかない点もあり不安で仕方ないはずなのに、ちびちびとビールを飲む私の事を励ましてくれるのだった。本当は自分の事で精一杯なのに、皆、同じ準指導員なのに。
私も自分の親に聞かされたことがある。いくつになっても子供は子供、小さい時のままだ。みんな私に接する時、数年前の滑れなかった私の姿しか見えていなかったのかもしれない。いつでも、あの頃の私の姿を思い浮かべ、私に接してくれたに違いない。
検定は一発勝負ではない、最後まであきらめないで!
二日目の私は、しっかりと立ち直っていた。みんな同じ準指導員なのだ。私はもっと上を目指したい、合格、不合格のラインをうろうろしたくなんかない。この日は全力でぶつかっていった。検定員に対しても、他の受験生に対しても、コースを規制するネットの周りで見ている一般のスキーヤーに対しても、
「俺の滑りを、よく見てろ」と言う気持ちで、納得いく滑りが出来た。その後、学科の検定も終わり皆、大変疲れた様子でまた、乾杯するのだった。
一日目の失敗はすごく悔やまれる。しかし、二日目に思い通り滑れたことで、1級の合格発表の時と同じ気持ちになっていた。自分の積み重ねてきたものが評価されるならば、必ず合格できる。不安など消えていた。他のメンバーは、転ぶような事もなく検定を終え、皆が心配していたのは私のことだけだった。しかし、私自身は立ち直っていて「よし、飲むぞ」の世界に入っていく。
この検定に出発する前の胎内スキー場は雪が少なく、校長も大変イライラしていたし私もパトロール、当然イライラしていた。その上、思うように練習も出来ない、毎日雪ばかり運んでいるのだ。
何があったのか覚えていないが
「仁、指導員検定は俺も検定員だから気をつけろ」とイライラした校長が吐き捨てるようにいった。
仁 「落ちるはずがありません、落とせるものなら落として下さい」
校長「喧嘩売ってるのか」
仁 「俺は、デモになるんですから、指導員を落ちるわけありません」
私はデモになりたいなどと夢のような事を本気で考えていた。結局、この夢がかなう事はなかったけれど、スキーには本気で取り組んでいた。やはり、男同士だ、心の中ではわかっていても、こんな言葉が出てしまう事もある。
素晴らしいスキー教師
そして、合格発表の時が来た。指導員検定はゼッケン順に合格者が発表される。
ゼッケンが呼ばれてホッとしていると、誰かに尻を蹴飛ばされた。振り向くと笑いながら、
校長「なんだあの点数は、あれじゃデモなんかになれねえよ」
仁 「二つ転んじゃいました」
校長「バカ、転んだら合格点出ないだろう」
仁 「二つとも、ほとんどゴールですから」
校長「まあいいや、早く金払って来い。帰ろう」
関取と秀毅さんも合格したのだが、大変残念な事に小林さんと春ちゃんが不合格になってしまった。校長は2人に対して
「まあこう言う事だ、まだ足りなかったんだ」と言うと、昼飯は○○のパーキングだと決めて出ていった。結果として、準指導員合格から1年目の受験と2年目の受験の差が出てしまったようだ。
ここで皆さんにわかっていただきたいのは、このレベルになっても、次の段階に進むのには、それなりの時間が必要な事だ。前年に準指導員に合格して、大変上手い人たちなのに、何故このような結果なのかよく考えてほしい。
あなたが自分の感覚でスキーを理解する事によって、必ず驚くようなスピードで上達すると何度も書いてきた。しかし、一つの事を体に覚えこませるのに、最低限必要な時間と言うものも必ずある。とにかくあせらずに、一つ一つ覚えこませてほしい。
1級に合格する事は確かに、あなたにとって難しいかもしれない。しかし、考え方を変えれば、もっと簡単に合格できると申し上げているのである。簡単に合格すると言う事は、あなたが簡単に考えると言う事だ。そして、もし許される事なら、私のような環境にあなたも飛び込んでみてほしい。
おそらく、これを読まれる方は、私のように全く滑れなかった方より、滑れる方のほうが多いと思う。スタートの時点で私より前にいるのだから、師に恵まれ、環境に恵まれさえすれば必ず5年で指導員は取れる。
さらに、今1級を持っている方なら、3年で合格できるのである。感覚を磨き、必死になって練習すれば必ず合格できるのである。全日本選手権など競技スキーで活躍した人達は、いともたやすく3,4年で指導員になってしまうだろう。しかし私が言いたいのは、初めからポテンシャルの高い人のことではない。ズブの素人でも必ず近い将来1級や指導員に合格できる。
そして、デモンストレーターになる事は難しいかもしれないけれど、素晴らしいスキー教師には絶対になれるのだ。
本当に上手くなったのだろうか?
いつも何かを命令しながら練習する事で、必ず上達する事に間違いはないし、検定にも合格できる。確かに私のような素人でも、1級、準指導員、指導員と驚くようなスピードで上手くなった。しかし、隊長や校長、マーさんや関取、他にもこれまで登場した人物より、上手くなったか?と言えば下手に思える。
外見を見れば、それぞれに個性があるし、何しろスキーとは何かを私に教えてくれた人達だ。私がこの人達にスキーとは?などと言えるはずもない。私が言えるのは、スキー場で過ごした年月が楽しかったことと、まったく滑れなかった男が、指導員になったと言う事実だけだ。後は酒を飲んでは、バカな事ばかり言って、あの頃を懐かしく思い出す事だろう。
まだ、1級に合格する前、ナイターで一人滑る校長を見た。リフトから第三ゲレンデを見上げると、ゲレンデの一番端を校長がウェーデルンで降りてきた。いつも馬鹿なことばかり言って「危ないからゆっくり降りよう」と言っている校長は、私が思うに、間違いなく練習する姿を見られることは嫌いに違いない。しかし、あの時校長は一人、本気になって滑っていた。
ゲレンデがアイスバーンになると「硬くて滑れない」と言う先生方に「この位なら、上からパチンって踏めばいいよ」と校長は良く言った。これが気に入った私は、口癖のように「上からパチン」と言うようになり「上からパチン」を必死でつかもうとしていた。
いつも私に「お前のは姿勢が高すぎるんだ、もっと小さくなって見ろ」と言う校長の、あの時の滑りは、姿勢が高いなんていうものではなかった。「何故あんなに硬いところを、あんなカッコで滑れるのだろう」とあの寒いなか、大きな口を開いているだけだった。おそらく、あの時から私は、校長の虜になってしまったに違いない。
胎内スキー学校を引退して10年が過ぎた今でも、私の瞳には、あの日の校長の滑りが焼き付いている。そして、あの日見たあの滑りが出来なければ、どんなに練習して上手くなったとしても、本当に上手くなったとは思えない。なぜなら、私にとっては、あの滑りがスキーを始めた自分にとって、一番の目標だったのだから。
当然スキー場で働く私にとって、1級は必要な資格だったけれど、2級の受験と言う具体的なものが目の前に現れたのは、受験の数日前だ。同時に本人は、合格するかどうかもわからなかったし、自分がそのレベルに達しているかどうかも、わかるはずがない。そんな事より、目標とするものは1級でも2級でもなく、あの滑りだった。
指導員やデモンストレーターを夢に見はじめ、練習を続ける日々。必ずあの日、見た滑りは、私の中に大切にしまってあった。いつでも蓋を開けると、自分の瞳に浮かび上がる大切な宝物だったし、今でも大切にしまっている。他にもマーさんのある日の滑り、隊長の滑り、デモをはじめて見たときなど、たくさん宝物はあるけれど、そのなかでも一番大きな箱の中に入っている。この箱から好きな時に取り出し、再現できるようにならない限り、絶対に校長より上手くなどなれる訳がない。
この箱にリボンでもつけて、後輩達にプレゼントしてやれたらどれほど素晴らしい事だろう。悲しい事に胎内スキー場にいる間に、プレゼントしてやる事は出来なかった。おそらく、この先も不可能だろう。確かに私が上手くなった事は、誰の目から見ても明らかな事だ。しかし、誰か後輩の心の端に、私の滑りが箱にしまって置かれているのだろうか・・・と考えると疑問だ。
私自身は校長に一番多くスキーを教わった。が、いつも出来ない事ばかりで、イライラさせて来たに違いないし、指導員に合格した今も、この先もずっと同じ事だろう。
皆さんに伝えたい。上手い上手くないは、検定なら点数に、ポールならタイムに現れるのだが、自分はこんな滑りをしたいと言う事を、しっかりとイメージする事だ。そして、あなたの滑りが誰かの箱の中に、しまわれた時が本当に上手くなった時だ。しかし、そのことをあなたが知る術はないのだから、本当に上手くなるなどと言う事は、あり得ないかもしれない。ただ、いつも自分の思い描く滑りを実現させる事だけは、忘れないでほしい。
上手いスキーヤーと言われたい
何度も書いたが検定は一発勝負ではない。一発勝負であるなら種目は一つで足りる。だからこそ、あきらめないでほしい。検定が一発勝負でないという事は、スキーが一発勝負ではないと言う事だ。2種目で転んでしまった私だが、きちんと合格できたではないか。
出された点数を我々が知る事は出来ないが、規定どおりなら実践種目(急斜面)指導種目(緩斜面)各5種目の内、1種目ずつ合格点に達していなくても、総得点が達していれば良いことになっている。したがって私は、転んだ種目が達していなかったとしても、総得点が達していた事になる。私の場合、二つとも急斜面種目だったから、どちらかは転んでも合格点が出ていた事に違いない。
校長は検定員だからその点数を見ることが出来る。「転んで合格点が出るわけないじゃないか」と言った事と「なんだあの点数は」と言った事を考えると、すんなりと合格すると思っていたのに、ギリギリだったからあのように言ったのかもしれない。1級や2級だって同じだ、一つ合格点に達していなくても問題はない。それよりも合格してからのほうが大切だと言う事を忘れないでほしい、70点ちょうどの合格も、73点の合格も1級は1級だ。
上手い1級、上手い指導員と言われるようになりたいではないか。そして、最終的に上手いスキーヤーと言われたい。速いほうが上手いという見方をすれば、競技スキーで活躍する人達より上手くなるのは無理だし、どんな斜面でも滑れるという点ではエベレストを滑ってしまう人より上手くはなれない。しかし、いつでも上手くなりたいという気持ちは持ち続けたい。
「好きこそ物の上手なれ」と言うことわざがあるが、誰よりもスキーを愛する事が出来れば、その人が一番上手いに違いない。
あきらめずに練習を続けよう
今、スキーの上達を本気で望むあなたへ・・・あきらめないでほしい!
スキーはもっと簡単に理解できるのだから。私は今、大阪で、ほとんどスキーをする事もなく暮らしている。しかし、近い将来、必ずどこかのスキー学校でスキー教師をしているはずだ。なぜならスキーを心から愛しているし、スキー教師と言う職業が好きでたまらないからである。
ここに書いたような生活から離れて10年が経ってしまったが、その思いは今も全く変わらない。現場で皆さんにスキーのことを話したり、教えたり出来れば幸せだが、それが出来ない今、上達を目指す皆さんの手助けはできないものかと思いこれを書いている。
細かい練習方法はたくさんあるし、スキー教師に聞いてもらえばわかることも多いだろう。私が言える事は、あなたの取り組み方が大切と言う事だ。ひとつの練習方法の中から、あなたが何を掴むかという事である。何人もの素晴らしいスキー教師がいる以上、同じ内容でもあなたにつかませたい感覚は違うのである。
どのようにとらえるか? どのような感覚なのかは、あなたの問題なのだ。自分自身の感覚で理解できなければ本物ではない。本物でないからバッジテストに落ちてしまうのだ。本物を求めよう! それと同時に素晴らしいスキー仲間との出会いも体験してほしい。
残念ながらこの年の胎内スキー場は、二ヶ月ほどしか営業できなかった。
指導員検定を終え戻った我々に、もう滑るところは残されていなかった。
出来る事なら、全く滑れなかった私を今日まで見守り続けてくれた人達に、指導員に合格した、その日の滑りを見てもらいたかった。
指導員の看板を背負った私の最初の滑りを!
合格したからと言って検定前と、突然変わるわけではない。しかし、胎内スキー場で過ごして、素晴らしいスキー教師達との出会いがなければ、指導員合格などあり得なかった。私の感謝の気持ちを表すには、この日の滑りを見てもらうのが一番大切に思えてならない。
冬場スキー場で働くメンバー達も、一部を残して夏の職場に戻り始めてはいたが、この日パークホテルの宴会場には、ほとんどのメンバーが集まったのだった。
もちろん皆の台詞は決まっている。
「あの仁が指導員ねー?」。
こうして21歳と8ヶ月、胎内スキー学校へやってきた私が指導員になった時、25歳と11ヶ月、もう少しで26歳になろうとしていた。
本質を見極めよう
こうして全く滑れなかった私は5シーズン目指導員に合格した。しかし、いろいろな面で恵まれていた事に違いない。
スキー歴。今答えれば、16年と言う事になる。最初の年に1級に合格すると言っても、一般スキーヤーの3年分は滑っているのだから当たり前の事だ。ただ一つだけ言えるのは、私はプルークボーゲンやシュテムターン、パラレルターンなどと種目を考えて練習した事がない。仮にも仕事はパトロール見習。
一番大切な事は転ばない事。はじめは斜滑降とキックターン、ゲレンデの端から端まで見ているフリをして降りていった。お客さんが滑ってくると邪魔にならないよう、端に行って横滑りで降りて行く。その中で転ばないために必要なものを覚えていったのだと思う、横滑りを練習したのではない。転ばないための技術として覚えたのだ。
皆さんは横滑りをする時何を考えるだろうか? 外向傾を作るための練習などと思ってないだろうか、本質を見極めてほしい。仮にも横滑りができれば、どんなに急な斜面でも、転ばずに降りて行けるではないか。これこそ最高の滑りかもしれない。ただ、時間がかかってしまうだけだ。
確かに私は環境にも恵まれた。しかし、来る日も来る日も、スキー教師が教えてくれたわけではない。先生方が練習しているところへは、恐れ多くて入って行けなかった。だが、そんなに長い時間教わらなくても、ひとつ教わったことを自分自身の感覚として理解するには、かえって一人で練習するほうが良い時だってあるだろう。
スキーヤーはあせればあせる程、いろいろな事を一度に覚えようとする。しかし、与えられた課題が出来ないうちに、そんなにいろいろな事を出来るわけがないのだ。早く上手くなりたければ、ひとつの課題を少しでも早く体に覚えこます事だ。
時には、滑る事が嫌で仕方ない時もあるだろう、それは何故か?
体が疲れているからかもしれない。しかし、それよりも上手く出来ない事のほうが大きく作用しないだろうか? 多くの事を一度にやろうとすれば、ひとつやふたつ忘れてしまう、「アーまた出来なかった」と思うのが当たり前だ。もっと、上達を実感できるように、ひとつの事に集中して練習しよう。これなら、上達を常に実感できるから楽しく練習できる。何度も言うように、体が覚えてしまえば勝手に再現してくれる。ひとつのことが再現できるようになったら、次のことを覚えて行けば良い。
スキーは簡単なのだ、楽しいのだ。あなたが難しく考えるから難しくなって、上手く行かないのだ。どうしても悩んでしまったら、全てを忘れよう。
あなたの一番好きなゲレンデを好きなように滑ろう。何も考えてはいけない、楽しくなったら・・・スキーが好きだと感じられたら、再び練習を始めよう。
道具の話
さて、スキーの用具など何も持っていない私だったが、最初の年スキー場へ行く前に、隊長のお兄さんのブーツを一万円で譲り受けた。胎内スキー場へ持っていったのは、これだけだ。前の年、誰かが使っていた物で195cmのスキーが与えられる。着るものといえば、登山用のカッパのズボンをはいて、上にはパトロールのヤッケを着て、手袋は隊長のお古を使っていた。
こんなカッコをしていると、いつのまにかデザインの古いスキーパンツやセーター、シャツなどが集まってくるようになる。スキー用品やウェアは何一つ買った事がないけれど、2年目になると「仁、だんだん着るものが良くなるじゃないか」と言われた。ストックもやはり隊長のお古だったけれど、長ささえ気にしなければ、スキー教師が使う高級品が回ってくるし、今使っているのより長いのがほしければ、誰か背の高い人がストックを折るのを待てばいい。二人の人が折れば一組のストックが出来あがる、後は長さを切りそろえて、よさそうなグリップと変えて使うようにしていた。
翌年から、新しいスキーが支給された。その年のニューモデルなのでスキーの微妙な違いなどわからない私は、新しい事が嬉しくて仕方なかった。上手くなって、ほかの人のスキーと取り替えたりしているうちに、違いがあることもわかるようになる。
不思議なもので、皆それぞれ自分の感覚に合うスキーを使うようになるのだが、私の場合、隊長や関取の使うスキーは重く感じたりした。しかし、校長が使うものは使いやすく感じた。どのスキーも最高級モデルだから、重さや性能に大きな差があるわけはないけれど、重く感じたりするのだった。
結論から言うと上手くなって、いろいろな違いがわかるようになるまでは、自分が目指す人と同じようなものを使えばいいのではないだろうか。これからスキーを始めようとする人は、スキーショップに行き予算を告げて選んでもらえばいいだろう。「簡単に回れるスキー、足の痛くないブーツ」と言うくらいの注文で、十分に良いものが見つかる。
いつだったか、大阪でスキーを買おうと思い、スキーショップでスキーを見ていたら、店員さんが来て「このスキーはターンの後半がどうの、トップがどうの」としつこく説明してくれた。私は内心「あなたはそんな事が解るほどスキーが上手なの?」と思い、説明を聞くのも面倒なので帰ってきた。
スキーの微妙な違いなど上手くならないとわからない、デザインや流行で選べば十分だと思う。上手くなって解るようになったら、自分のほしいものが見つかるまで探せばいい。
ウェアはもちろん、あなたのお気に入りで買うしかないだろう。何から何まで揃えなくても、中に着るものは普段着ている物の中から、動きやすいものを選べば十分だ。始めてスキーをする人は、転んだり起きたりを繰り返すから、気温が低くても結構汗を掻くので、汗を吸いやすいもののほうがよいと思う。
私のことを「ズンちゃん」と呼んでいた長谷川先生は、当時50歳を超えていたが、我々がスキーパンツの下に履くタイツの代わりに、奥さんのパンストを着用していた。今は長谷川先生も新潟県スキー連盟の偉い人なので、これを読んだ人に変な目で見られると困るのから、ここだけの話しにしておいてほしい。色黒でスネ毛が多いと大変気持ち悪いが本人は「暖かくて、動きやすい」と言っていたから、利用してみるのも良いかもしれない。
当時の私はパトロールと言う事もあり、スコップを持ち雪の中を歩く事も多かった。したがって、靴の中もぬれてしまうから、ぬれない靴であれば最高だった。校長の靴が二年目に入った年、支給されたスキーの金具を、校長の靴に合わせて付けてしまったら、私に取られる事を察知した校長は、「仁、やるから今年一年待ってくれ」と言っていたが、執拗に付け狙われシーズン半ば私のものとなった。
足の大きさは私が26cm、校長が25,5cmだったが、2シーズンはいたものだからインナーも痩せて問題はなかった。この靴が気に入った私は、この後4年履いたが、合計6年ともなるとやはりヘタッテしまった。毎日使う人でなければ、何年も十分に使えるものだし、足が痛いのはスキーをやる気までなくしてしまいかねないので、靴はじっくりと選ぶ事を進める。
もちろんお金に余裕があれば、毎年新しいものを使いたいのが人情と言うものだが、どんなにすごい道具を使っても、自分の技術や感覚が低ければ性能すら発揮してくれないだろう。上手くなって解るようになるまでは、スキー教師や上手い人の話を聞いて、参考にするとよいだろう。
胎内雑技団
どこのスキー学校でも同じだと思うが、いろいろな事を練習する。スキー雑誌などで紹介されているものもあるので、皆さんもいろいろな事を練習すると思う。しかし、ある程度、上手い人達が集まると、割と簡単に出来てしまって面白くない。練習方法の所でも書いたが、エスカレートして行くのだ。
とにかく、いろいろな事を考え出す、ピョンピョン飛びながら回るなんて事は皆さんも経験があるかもしれない。我々がこれをやると、着地する時に平行、はの字、逆はの字となる。(図1)
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図1
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とにかく、誰かが転びそうな事を考え出すのだった。皆さんもそうだと思うが、目の前で指導員や準指導員が転べば、面白くてたまらない。簡単そうに思えても、なかなか難しい事はいろいろある。
次に、スキーの前を開いて直滑降するのも笑える。
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(図2)これも、なかなか真っ直ぐには滑れない。
自分は真っ直ぐ滑っているつもりでもクルリと回ってしまう。
要するに、スキーに力が伝わらないのだ。したがって、スキーに無理やり力を伝える練習には最高だ。
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スキーを回し、いきなりエッジングする感覚を体に覚えさせるために、極端に表現したらどうなるか。(図B)
図B
斜滑降から左のスキーのトップの位置より前に右のブーツが出て行く。とにかく無理にこじつけて、その時の感覚を、
一度でいいから体に感じさせてしまうようにした。このような事を校長を先頭に考え出して行くのだ。しかし、体の使い方を覚えるのには、確かな練習方法と言えるだろう、皆さんも、周りの人が見ればバカと思うかもしれないが、やってみるとよいだろう。
外足に荷重するための練習として斜滑降しながら、内足を持ち上げる事は良く練習すると思う。これも我々がやると、おろす時に平行、はの字、逆はの字というようになる。さらにターンしながら、これをやった、その次は内足でターンしながら外足でこれをやる。
このような事も形ばかりに目が行くと、スキーの形を変える事ばかり考え上手く行かない、今あなたが何をしなければいけないか、良く考える事が必要だ。内足の形を変えるという事ばかりに目を向けてしまいがちだが、本当のところ外足にしっかり荷重する事の練習なのだ。外足に乗る事を体が再現する状態さえ作れば、いともたやすく出来てしまうのだ。何度も書いてきたように、たくさんの事を一度にやろうとしても上手く行かない。一番初めにしなければいけない事を、しっかりとイメージするようにしてほしい。このような事をする時、私の場合なら最初に考えるのは外足一本に乗り、小さくなる事を考えて滑り始めるわけだ。自分自身の感覚が大切だ、あなたは滑り始める時に、何を考えるのだろうか。
このような練習にはスピードや斜度も限界がある、上手くなれば急斜面でも、高いスピードでも出来てしまうかもしれないけれど、そこまで求める事はない。緩斜面でも指導員や準指導員が転んだりするから面白いのだ。普段、お客さんや生徒さんの前では、絶対に転ばないという緊張感を持っている人達だから、簡単そうに見えて転んだりすると皆、切れてしまう。「クソー何で出来ないんだ」などと大声を出して何度も挑戦するから楽しいのだ。スキーは楽しくなければいけない、皆さんも楽しみながら練習をしてほしい。
スキーも面白いけどボードも面白い
実は、平成12年3月指導員研修会で私と隊長は大笑いした。おそらく、スキーを始めてから今までで一番笑ったのではないだろうか。この時は、私の知人がスノーボードをするので、大阪から石打丸山スキー場まで一緒に連れていき、我々が研修会の間、彼はボードをしていた。私もボードをしてみようと思い、仲間のをひとつ借りていったのだが、理論的に考えても「ボードにもサイドカーブがある、真中に乗って小さくなればいいのだから簡単だ」などと言いながら、夕食でビールなどを飲みながら話していた。
部屋へ戻り、しばらくして私が「ボードしてくる」と言うと隊長も行くことになった。36歳の指導員と42歳の準指導員、スキー歴は16年と22年のベテランと言う事になる。
ボードをつけ、颯爽と滑り始める。サイドカーブを効かせて、カービングの連続。スムーズな体重移動を心がけて・・・と思ったら、なんと立てないではないか。立ちあがっても2m程で転ぶ、お互いに相手の姿を見ると笑ってしまって立ちあがれない。座ったままで、笑いが治まった頃、どちらともなく立ちあがり滑り始める。
先に転んだほうが負けだ。笑ってしまって滑るどころではない、とにかく笑ってしまって滑れなかった。結局、曲がる事は出来なかったけれど、30m程は立ったままで滑って行けるようになっただろうか、とても痛かったのは、言うまでもないだろう。
何とボードは面白いのだろう、あれほど笑ったのは久しぶりだった。しかしひとつだけ言っておかなければいけない。あれほど惨めな思いをしたのは、初めて栂池に行った時以来だ。
あの頃スキーに狂ったように、今ボードに狂うかと言えば、そんな事はあり得ない。出来ればボードスクールに入って、若い女性教師に教えてもらってニタニタしているような、中年ボーダーになりたいものだ。
ただ、自分の感覚がどうのこうのと始まってしまわないように注意したい。もし何年か経って、どこかのスキー場で親子連れを見かけて、お父さんはスキーが上手いのだがボードを履いた途端、子供に手を引かれ転んでばかりいる人がいたら、私かもしれない。
果たして私の子供達は、スキーをするのかボードをするのか私にはわからないが、どちらも楽しい事に違いはない。彼等が大きくなって、狂ってみたいと言い出したら、喜んで送り出してあげたい。
スランプはどのように克服する?
ここまで私が指導員に合格するまでの5シーズンを書かせていただいたが、楽しんでもらえただろうか。これからスキーの上達を目指す人に「こんな男もいた。自分だって練習すれば1級を取れる、指導員になれる」という自信を持っていただければ素晴らしい事だと思う。
あなただって初めてスキーを履いた年に、1級が取れるのだ。ただ、多少なりとも生活は犠牲にしなければいけないかもしれない。休みの多い学生ならまだしも、社会人にとってシーズンに30日も50日も滑る事は、難しいと言うしかないが、スキー場が近く毎日ナイターに行ける人ならば、絶対に出来る。そうでない人はスキー学校を有効に利用する事を考えよう。
ただし、大前提となる事がひとつだけある・・・・スキーを愛している事。私自身がそうだったように「今日は滑りたくない」と言う日が必ずある、これを克服するために必要なのが、スキーを愛している事だ。先輩達がそうだったように、時には何よりもスキーを愛さなくてはいけない事だって、あるかもしれない。
私の場合、もちろん準指導員に合格するくらいまでは、滑る事が楽しくて仕方なかった。雪が降らない事も関係したと思うが、だんだん悩みも多くなって、上手くなるスピードは確実に遅くなる。はの字で滑る人のスキーが揃う、大回りしか出来ない人が小さく回れるようになる。3級に合格した人が、2級を目指し合格する。外見から上達もわかるし、自分でも実感できるから、楽しくて仕方ないだろう。
しかし、あなたがこれから踏みこもうとする世界は間違いなく、あなたのもっと感覚的な部分を求めてくる。スキー学校で初心者を教えていると、どんどん上手くなるから、スキー教師冥利に尽きる。しかし、上手くなるにつれ理解するのにも時間を要し、実際に感覚としてつかみ、いつでも再現してくれるなどと言えば、途方もない作業に思えてくる。
我々スキー教師が説明した事を、理解して再現するあなたにとっては、もっと大変な作業に違いない。しかし、上手くなればなるほど、この域に近づいて来るに違いないのだ。
こんなとき、あなたはどうする? 何度も書いてきたが、スキーが楽しいと思えることをしよう。私の場合は仲間達とバカなことを夢中でするうちに、勝手に上達したような気がする。それでもスランプに陥る事は必ずある、こんなときは自分に言い聞かせるしかなかった。自分は下手なのだから、人より一分でも多く練習する事を。
何を練習したら良いか?どこを直せば良いか?何もわからない時に練習するのは誰だって嫌だ。与えられた課題をあなた自身の感覚として、理解する事が大切なのだが、それだって、いつの日か自分で課題を見つけ出し、答えを探さなければいけなくなり、その課題を見つけられない日も必ずあるのだ。
スキー教師を目指すからには、こんな日も練習しなければいけないと思っていたが、今になって思えば長いシーズンの数日の事、悩む必要もない。
皆さんには特にこの事を伝えたい、一番大切な事はスキーを楽しむこと!
この気持ちがなければ、同じだけ上達するにも、余計な時間がかかってしまう。スランプを感じた時には、仲間とバカな事をしよう、練習の事は忘れて、少しビールでも飲んで滑ったっていいではないか。
指導員の宿命?
若い人が、男女数人でスキーに行きワイワイ滑るのを見ると、本当に楽しそうに見える。人それぞれ価値観が違う、スキーに求めるものも違うと思う。しかし、楽しければいいではないか、どれほど上達しても完成はない。一直線に上達ばかりを求めて、悩んでしまうばかりではつまらない。大阪へ戻り、何度か知り合いに誘われてスキーに行った事がある、ワイワイと車に乗り、缶ビールを買いこんで。運転する人には犠牲になってもらい、スキー場の駐車場で一眠りする、これが又楽しい。
目を覚まし滑りに行き、リフトから降りた時だ、必ずと言っていいほど皆、私の前に並んでしまう。
確かに皆でスキーに行けば楽しいけれど、この人達は、少し違う事を求めているようだ。私が何かを話し始めるまで、いつまでも真剣な顔で待ち続ける。たまたま一緒にスキーに行くのだが、中に指導員がいると楽しいスキーより、上達する事を求めるのだ。皆さんのスキーはどうだろう?
大勢でスキーに行き、前の人の腰につかまり連なって滑る。私もやってみたかった。確かに2級、1級と進む間、周りの人達のおかげで楽しくスキーを覚えられた事に間違いはない。しかし、女の子とスキーに行った事もないし「大丈夫?」などと抱き起こした事もない。今、指導員や1級を目指している人は、こんなスキーも楽しんでほしいと思う。命がけのスキー、酔っ払いのスキー、楽しいスキー、つまらないスキー、大笑いするスキー、これら全てを味わってほしい。スキーは楽しいのだ、楽しくなければスキーではない!
誰が上手いのか?
何を基準に上手いというのだろう? 1級を持っているから上手いのか、指導員やクラウンプライズに合格したから上手いのか。デモンストレーターが上手いのか、ワールドカップで優勝した選手が上手いのか? 全て間違いではない。ワールドカップで優勝した人は世界で一番上手い。
どのような斜面でも転ばずに速く滑り降りた人が上手いと、私は思っている。皆さんはどう思っているのだろう?当然1級を持っている人は上手い、だがテクニカルやクラウン、指導員などを持つ人のほうが上手いと思うのも当たり前かもしれない。しかし、ワールドカップの選手達は、1級はおろか2級だって持っていない、ならば下手なのか、と言えば違うのだ。指導員の中でもトップクラスの力を持つデモンストレーターよりも、ずっと上手いのである。こんなことは皆さんもわかっているから、怒られてしまうかもしれないが、私が何を言いたいかといえば、バッジテスト合格を目指す人達が陥りやすい落とし穴の事だ。
あまりにも1級のパラレルターンに、あなたの目が奪われてしまうことが怖いのだ。種目と言うものにこだわるあまり、少しでも時間を作り検定用の滑りばかり練習しようとする事が怖いのだ。
確かに検定用の滑りを積み重ねる事によって合格できる。しかし、斜面はいつも同じではないし、あなたの体調だって変化する。そして、検定種目だって変わって行くのだ。種目ばかりに目を向けて練習する事によって、確かに「開いたり閉じたり」は出来るようになる。だが、もっとも大切な「スキーに力の伝わる場所に乗る」と言う事が後回しになってしまわないだろうか? これさえマスターすれば、あなたが何かをしようとした時にスキーが思い通りに動くのだ。後はスキー教師の説明を自分自身で感じて、再現するだけでいい。
前に書いたが、北穂高岳の北壁を私は全く滑れなかった。準指導員の時だ。自分だって合格して上手くなっていることは実感していた。しかし、滑れないことで、自分が下手である事を知る事になる。普段の練習でも感覚的に、もっと上手くなるための要素は解っていて努力をする。しかし、自分の力の及ばないような斜面では、細かいことを考えながら滑るのは不可能だ。
とにかく体が覚えた事を再現して行くだけで精一杯なはずだ。頭で考えるとしたら、「怖がらない」事ぐらいだろう、難しく考える事はない、単純に滑れないから下手なのだ。
検定だって同じ事、あの緊張感の中、あなたに出来る事は「落ち着け」と命令する事だけだ。後は体が再現してくれる。この時、検定用に練習した斜面と著しくかけ離れていたら、どうなるのだろう。指導員を目標として練習する私が、一番大切に考えていたのは、ただ漠然と上手くなる事だった。どこでも転ばずに少しでも速く滑り降りる事だった。
運悪く、北壁を滑れなかった年で、都合により退社してしまった。したがって、あの時より上手くなったかどうかわからない。しかし、今行けば、確実に命を落とすのではないだろうか。あの頃より体力も落ちているし、滑走時間もべらぼうに少なくなっている。
あの時下手だった私は、確実にあの時より下手になっている事は間違いない。そして、若さと冒険心に任せ飛びこんでいなかったら、自分が下手な事すらわからなかったかもしれない。
何も命がけのスキーをしろと言うのではない、いろいろな斜面を滑るようにするだけでいいのだ。しかし、それすらしなければ自分は「ステッピングが下手だ」とか「スキディングが上手く行かない」などと言って、スキーの本質を知る前に終わってしまうのではないだろうか。このあたりをどう理解するかは皆さんの自由だけれど、私は「ある一部分が出来ないから下手だ」とは考えた事はない。
以前転んでばかりいた斜面に行き「ここを転ばずに滑れたら、上手くなっている」と思っていた。このほうが現実的で解りやすくないだろうか。
皆さんの上達を計る物差しがあるとすれば、それはまさしく、あなたの目の前の斜面なのだ。そして、あなたにしか感じる事の出来ないスキーの動きなのだから、とにかく簡単に考えてほしい。
正直にお話すると、ある程度上手くなってから(簡単に1級の頃としておく)スキーがずれる原因など分析できなかった。常にスキーに力の伝わる場所に乗ろうとしていたけれど、一年後、二年後とは全く違う感覚だった。ただトータルで考え、より速く安定して滑れれば満足していた。
あなた自身が常に一歩上の、新しい感覚を求め続ける事が大切なのだ。
スキー教師になるために練習をして、勉強をしても、解らない事はたくさんある。スキーは奥が深い、だからこそ、いろいろな人が楽しめるのだ。
それでも敢えて言わせてもらいたい。どんなに出来ない事があっても、解らない事がたくさんあっても、スキーは簡単で楽しいものなのだ。だってそうだろう、ただ転ばずに滑り降りられるようになればいいのだから・・・。
あなたが難しく考えるから難しくなるのだ。今まで3回転したら転んでいた人が4回転できたら・・・確実に前より上手いと言える。
感覚と言う言葉の意味
何度も感覚と書いてきたから、感覚と言う文字を見ると拒否反応を起こしてしまうかもしれない。例えば「キューン」と表現したり「ポーンと開いてヒョイと閉じる」と表現したりした。どのように理解すればいいのだろう、真剣に読み進めていただいた方なら、もう数十ページも前に理解してしまったかもしれない・・・そう簡単に、とにかく簡単に考えてほしい。
読んで字の如し・・・あなた自身で感じて覚えて行くのだ。上達を目指し、教科書や参考書を読んだり、スキー学校に入ったりと、皆さんの努力が並大抵の事でない事ぐらい、スキー教師の私には良くわかる。しかし、書いてある事や、スキー教師の言うことを覚えようとしても 「感覚の感」 つまり、あなたが感じる部分がなければ覚える事など出来るわけがない。
幸い私の場合、大変早い段階でこの事に気がついた。先輩達も皆、私が経験したのと同じ事を経験して、上手くなった事に変わりはないのだが、子供の頃からスキーをしていて、「気づいた時には出来ていた」と言うのが現実だろう。
子供達は、そんなに頭を使わなくても、いろいろな所を滑る内に自分の物にしてしまうのだ。私の場合20歳という年齢で始めたから、鮮明に覚えているだけの話しだ。何故気がついたのか、何度も校長は「もっと曲げてみろ」と言う、校長が滑るのを見て真似するのだが「曲がってない」と言われる。自分は曲げているつもりでも、同じ事を言われてしまう。
そのうち頭に来て、「曲げてるじゃないか、コノヤロー。これでどうだ!良く見てろ、校長だって曲がってないじゃないか」と心の中で叫びながら滑った時である、「それでいいよ」と言われたのだった。この時、何とも言えない感動があった。誉められた事が嬉しかったのではなく、やけくそで、とんでもなく後傾になった状態から、背伸びするくらい(実際はそれほどではないと思う)まで、体を動かした時に、今まで感じた事のない動きをスキーがしたのだった。
この時私は何か新しいものを感じたのだ。次の日から3日ほど同じ事をして、体が覚えた、これが私の感覚だ。その次は調節だ、このくらい曲げると、スキーはこのように動くという事をつかんで行くのだ。
これが、「あなたの感覚としてつかむ」という事に他ならない。そして、曲げる事を意識しなくなった頃になると、自分は曲げようとしていないし、何も考えずに滑っているのに、もう校長は「曲げろ」とは言わずに、私が滑って行くと、黙ってうなずくのだった。
こんな事を、大変早い段階で気づいたと書いた、それでも最初のシーズンではなく、2年目の後半だったと思う。来シーズン準指導員を受験するくらいだから、上手い1級になってからだ。
だからこそ皆さんには、声を大にして伝えたいのだ。私自身は2年でこの事に気づいたのだが、大変早い段階で気づいたと思っている。私の言うことを、信じる信じないは皆さんの自由だが、信じようと思う人は、今すぐこの事に気づくことが出来る。初めてスキーをしようと思う人が私の言うことを信じてくれるなら、友人達が驚くようなスピードで上達して行く事に間違いない。
次に「一人で滑る時は忘れてない?」と言う見出しを思い出してほしい。あなたはスキー学校に入り、良いスキー教師に教えてもらう機会に恵まれた。その教師があなたに何かを感じさせてくれたとしよう、レッスンも終わり、あなたは瞳を輝かせながら解散する。昼食を終え、すがすがしい気分で午後のゲレンデへ向かう、天気も良く雪質もいい、滑り始めようとしたその時、もう何もかも忘れてしまっていないだろうか?
せっかく感じる事が出来たのに、覚える時間を作らなかったら・・・あなたの滑りは元通りだ。そして覚える時間を作る事もなく滑った、2泊3日のスキーが終わる。一ヶ月後、再びスキーに出かけたあなたに、あの日感じた何かは、もう残っていないのだ。したがってまた、元通りの滑りをする事になる、あの日スキー学校に入るために払った2000円は、いったい何なのだろうか。
解散する時に輝いていた、あなたの瞳は今でも輝いているのだろうか、「上手くなりたい」と悩み、輝きをなくしたあなたの瞳は、再びスキー学校に向けられる。そして身を削って働いて得た金の中から、2000円を出すのだ。もし、この日のスキー教師が、あなたに何も感じさせてくれなかったら・・・こう考えただけでゾッとする。感じさせてくれれば、まだ救われる、しかし、あなたは又同じ事を繰り返すのではないだろうか。
お願いだから、スキー教師があなたに感じさせてくれた事を忘れないでほしい。忘れないうちに、あなたの体に覚えさせてほしい、忘れるのは、あなたが意識しなくても、体が再現してくれるようになってからだ。
何度も書いたように、感じる事さえ出来れば覚えるのに、それほど長い時間は必要としない。
上達の為にいつもあなたの心の隅に置いてほしい事
最後に、この先あなたが、大きな壁にぶつかって上達を感じられない事があっても、必ず克服できるコツを書いておきたい。難しい事は何もない、いつも楽しく練習する事を考えていればいい、「スキーに力の伝わる場所」これを探し続けてほしい。そこに乗っていればあなたの思い通りになる、思い通りになれば楽しいではないか!
心から、あなたの上達を願っている。そして私も今以上に上達したい。
1 ひとつひとつマスターしよう
2 あなたが難しく考えるから難しくなる
3 カッコなんかどうでもいい
4 いろいろな斜面を滑ろう
5 どんな斜面でも転ばずに滑れれば最高
6 あなたの感覚が一番大切
7 スキーに自分の思いを伝えよう
8 わからない時はスキー教師に聞こう
9 自分の限界スピードを高めよう
10 楽しくなければスキーではない
以上が20歳でスキーを覚えて5年後、指導員に合格するまでに私が感じた事である。確かに難しい事もたくさんあった、しかし、滑る事の楽しさが難しい事を全て打ち消してくれたから克服できたと思う。それと同時にスキーを単純に理解している仲間達と一緒に練習できたり、遊んだりしたからだろう、あなたにも必ず出来る、いつも遊ぶように練習しよう。
最後に、何も解らなかった私に、飽きることなくスキーを伝授してくれた師匠達に感謝すると共に、私ごとき実績も何もない指導員がスキー技術や心構えについて書いたことをお許し願いながら、皆さんの素晴らしいスキーライフを応援して筆を置く事にする。まったく幼稚な文章ではあったが、最後まで読み進めて頂いた事に感謝したい。