平成一一年(ワ)第二六一〇五号
 戸籍続柄記載訂正等請求事件
意 見 陳 述 書

原告 田中須美子
             二〇〇〇年三月一七日

東京地方裁判所
 民事第一二部 御中


 子どもは、親が婚姻届をだしているかどうかを選んで、生まれることはできません。生まれたら、たまたま自分の親が婚姻届を出す生き方をしていなかったというにすぎません。にもかかわらず、自分を生んだ親が婚姻届を出していないというだけで、嫡出なのか否かの区別から始まり、出生届から、戸籍の登録、相続にいたるまで、法制度で差別されてしまうのです。

 親が婚姻届を出すかどうか、それは親自身の選択の問題であり、生き方の問題であって、子どもには預り知らぬことではないでしょうか。にもかかわらず、法制度が、婚姻届を出さない親の下に生まれた子どもを差別することは、不法であり不当であり、人権侵害です。

 現在、戸籍の続柄欄で、婚外子は「嫡出でない子」として、「男」「女」と、一目で分かる差別表記をされています。

 家制度解体に伴う戦後の戸籍法改正において、この差別表記を残した理由は、「一目で婚外子とわかるから」ということでした。差別表記を維持する必要性としては、「理屈の上ではすっきりしない」ことを自ら認識していながら、なお「一目でわかる」ことにこだわり維持したのです。

 この婚外子であるという差別の烙印は、その子どもの出生から死亡まで、いやそればかりではなく、死んでからもなお、この戸籍が除籍となり八〇年の保存期限が過ぎるまで、ついてまわるのです。

 この一目でわかる表記は、それ自身差別ですが、そればかりでなくこの表記によって、この社会にある婚外出生への差別と偏見を助長し、差別の再生産をもたらすものとしての役割を果たしています。

 自治体の戸籍の窓口には、今も就職や進学のためという理由で、多くの人が戸籍を請求に来ます。それは未だ、企業や学校が本人に戸籍の提出を求めているからなのです。また興信所や探偵社による結婚や採用の身元調査のための戸籍謄本の不正取得もあとをたちません。これらの結果、婚約が破談になったり、就職で不採用になったりの差別がくりかえし引き起こされているのです。

 法制度における婚外子差別は、婚外子自身への差別であると同時に、その婚外子を生んだ女性への制裁でもあり、また子どもが差別されたくなかったら、婚姻外で子どもを生むなという恫喝でもあります。

 婚姻届を出さずに子どもを生み育てる生き方を選ぶ女性へに対する差別や蔑視が、未だ日本の社会では強くあります。

 私自身、福喜多さんと共同生活を始めて、子どもが生まれる兆候もないときから、まわりから「子どもがかわいそうだから婚姻届を出した方がいい」と幾度となく言われました。そのたびに、気分がおもくなり、落ち込んだりしていました。一体どこに自分の子どもが差別されて嬉しい親がいるでしょうか。

 差別を問題とせずに、差別を前提としたこの「かわいそう」という言葉や、その裏にある「結婚をして子どもを生むのが当然」という意識、また、「結婚しないで子どもを生むなんて、なんてひどい母親だ」という差別感が、どれだけ女性にプレッシャーを与え、追いつめていく役割をはたしていることでしょうか。

 子どもがかわいそう、と妊娠中絶に追い込まれたり、非難や差別の中で追い詰められ、精神を病んでしまう人、自殺や自殺未遂に追い込まれてしまう人もいるのです。

 このような日本の差別の現実が、婚外子出生率わずか、一、四%という数字となって現れています。一方、婚外子差別が撤廃された欧米社会では、二〇%〜五〇%という高出生率なのです。

 婚姻外かどうかで異なる戸籍の続柄差別表記は、当の子ども自身だけではなく、女性自身にも苦痛を強いるものとしてあります。

 日本の社会の法制度上の仕組みは個人単位ではなく、世帯単位、家族単位となっているため、税金の年末調整の申告や確定申告、国民年金の免除申請など様々な場面で「続柄」の記載が求められます。

 私自身、その度にどう書けば良いのか悩み逡巡してきました。

 しかし一九九五年三月一日に、住民票の差別記載が撤廃され、婚外子か否かの区別も長男・長女という表記もなくなり、皆、子と表記される様になりました。税金の年末調整の申請の際、もう続柄で逡巡する必要はないのだと解放感を覚えました。

 でもこれは住民票の範囲内での解放に過ぎません。戸籍の続柄表記がある限り、年金の申請などこれからも社会のさまざまな場所で続柄が求められ、長男長女という呼び方が使われ続け、その度に逡巡や苦痛を覚えていくことになるのです。

 戦後五〇年が過ぎた今も、戦前の家制度に基づく家意識が、この社会に息づいています。 「嫁だから、夫の親の家のことをするのは当然」「嫁だから、夫の親を介護するのは当然」「妻だから、家事育児をするのは当たり前」「妻だから、我慢するのがあたりまえ」等々……

 家制度においては、夫婦の結びつきは対等な関係ではなく、妻は一家の主人である夫に従わなければならないという、縦の関係としての結びつきでした。

 女性にとって結婚とは、夫の家の戸籍に入り、夫の家の姓を名のり、嫁として、夫や夫の親に従い、つくすということだったのです。

 戦後家制度が廃止されたことに伴い改正された新しい戸籍は、抜本的改変がなされず、戸籍の編成の仕方をほぼ踏襲し、長男・長女の記載も婚外子かどうかの区別も残り、また戸主も筆頭者に変わっただけというものでした。しかも、戸籍の改正作業がすべて終わり、全国の市区町村ですべて新らしい戸籍に変わったのは、戦後二三年もたった一九六八年のことでした。そのときまで数多くの自治体では戦前の戸籍が使用されていたのです。

 民法にしてもそうです。結婚すれば、一方の姓をすてねばならずその結果今でもほとんどが妻が姓を放棄しているのです。また相手の親や兄弟と親族関係となり、扶養義務が課されることすらあります。

 これでは、戦前の家意識が今もなお息づいていても、そして、妻への意識や、嫁という意識、そして従属的夫婦関係の意識が変わらないのも不思議ではありません。

 このような縦の従属的夫婦関係、外で働く夫を支え、家事・育児は妻の仕事とする性別役割の押しつけや、結婚とは嫁に行く、嫁をもらうということ、また、一方の姓を捨てさせるところから結婚が始まるということでは、私たちにとって、お互いの良い関係を作り出すことはできないと思い、婚姻届を出さない生き方を選びました。

 「戸籍との連動性」を理由に、住民票の続柄差別記載の撤廃を拒否してきた自治省でしたが、一九九三年の国連規約人権委員会による、日本の婚外子差別撤廃の勧告や、一九九三年から一九九四年にかけての地裁・高裁段階での相次ぐ婚外子差別憲法違反の判断、婚外子差別は人権侵害という声の高まりの中、とうとう差別記載を撤廃しました。

 一九九五年三月一日より、婚外子・婚内子・長男・長女・養子という区別をやめて、「子」という表記に全国一斉に改正したのです。その後、東京高裁でも住民票の続柄差別表記は憲法違反との判断も出されました。

 本来なら、この時点で、法務省も、戸籍の続柄の差別表記を撤廃すべきだったと思います。しかしながら、民法で相続差別を規定しているので、相続差別規定の撤廃がなければ差別表記は変えられないとの理由で維持しました。

 相続差別の規定は、婚外子差別の最大の根拠となっており、一刻も早く撤廃されるべきと考えます。しかしながら、もはや相続差別規定を根拠に、戸籍の続柄差別表記を維持することはできないのではないでしょうか。なぜなら続柄差別表記は法律上不必要なものであるからです。

 一体誰のための差別の烙印なのでしょうか。婚姻届を出さずに子どもを生んだ母とその子への憎しみと蔑視をあおる役割を果たしている差別表記は、人権侵害以外のものではなく、それ自身として撤廃されるべきと思います。

 住民票続柄差別記載の撤廃より、すでに丸五年が経ち、一九九八年には、規約人権委員会で、日本に対し二度目の婚外子差別撤廃の勧告が出されました。

 婚姻届を出さずに子どもを生む生き方を選択した、ないし選択する女性の生き方を罰する様な制度は、即刻撤廃されるよう願ってやみません。

 そしてこの続柄差別表記の撤廃が、日本の法制度上から婚外子差別がすべて撤廃される契機となっていくことを心から願っています。