交流会20周年と私

 

胡麻崎 ゆう子(高知)

 

「交流会」20周年おめでとうございます。私はこの春40年勤めた職場を退職し、時間に少し余裕が出来たこともあって、20周年記念集会に参加することが出来ました。

私が「住民票続柄裁判交流会」に関わるようになったのは、ある 日の「学校に行かない子をもつ親の会KOCHI」の例会で続柄裁判の署名を手にしてからでした。愛媛の方から要請があったからということで、署名が回って 来たのです。子どもの不登校をきっかけにその親の会に参加したのが1989年6月でしたから、その署名は1990年頃だったでしょうか。とても衝撃を受け たことを覚えています。「私のことではないか」と思ったのです。私の母はシングルマザー(昔はこういう言い方はされてなかったと思いますが)で、私と妹は 「婚外子」だったからです。ノウテンキなことに私たちは日常的には、差別されていることに気づいていませんでした。ただある時、戸籍謄本が要ることがあり 取り寄せて、父親の欄が空欄だったことに驚き、自分のせいではないのになぜか嫌な気持ちになり、それ以来、戸籍謄本を取ることを避けてきたりしていまし た。この前、退職を機に健康保険を夫の扶養にするために戸籍謄本を取り寄せると、とてもシンプルな横書きで 「届出人母…」となっていることに、ほっとし たことでした。

 こんな風に意識面で遅れている自分が恥ずかしいのですが、他人事ではないと思ってずっとこの「会」の端っこにぶら下がってき ています。これまで一度だけ裁判の傍聴に参加しました。1993年7月落合恵子さんの証人尋問の時でした。あの時、後の交流会で「みなさんのように婚外子 を選んだわけではないので、違和感を感じるときもあります」等と、自分自身の意識の低さを露呈する発言をしたことがあります。そんな私ですが、今回また落 合恵子さんのお話が聞きたかったのと、根津公子さんたちの処分が気がかりだったので参加したのです(「会」から送られてきた署名用紙を増し刷りして高知か ら60筆送っていました)。根津さんたちのことは、夜の交流会で免職にはならなかったと聞いて安心しました。

 落合さんのお話しは、私自身4年前に他界した母のことと重なって、胸がいっぱいになりました。「怒髪」で頑張っている落合さ んにいただいたパワーで、おかしいことには、「ノー」と発言していきたいと思います。20周年記念集会や夜の交流会でみなさんにふれ合えて、あらためて、 「子」としての自分を見つめることが出来たように思います。ありがとうございました。

                        (通信Voiceより)